休むべき時のサイン(僕の場合)

ビート・ザ・コントロール
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お楽しみ様です。小野貴正です。

久々に東林間の部屋に戻り、なんか腰を痛めたものの、予定通りに先ほど東海大相模まで走ってきました。予想通り、優勝おめでとうの横断幕とかが出ており、周辺の商店街にも優勝おめでとうのポスターがたくさん。

賑やかになって、なんかいいですね。

野球部は練習していたっぽいですし、なんか試合もしていたっぽいのですが、彼らが東海大相模かどうかはわからず、しかしいつもよりも人は増えている感じです。優勝効果、ですかね。学校の垂れ幕を写真に収める方もいらっしゃったので。

帰宅後はコレまた久々にエルセ・シャワーヘッドで水を浴びてスッキリし、玄米炊いてごま塩ふりかけて食べようかな、と思案中。走ってスッキリしたはいいですが、腰が痛い。それで、夕方出かける前にちょっと休もうかな、と。

さて、休むべき時のサイン。

今日のように腰が痛み出したとかあれば、それもひとつの休むべきサインとして捉えていますが、それ以上に最近気をつけているのが、なにやらモノ申しはじめた時。たとえばですけど、「最近Facebookのニュースフィードでイライラするな」とか「もうこのニュースレターはダメだな」とか。

頑固親父さんが言う「オレが子供の頃はヨ・・・暑くて外に出ないなんてそんなひ弱なこと言わなかったもんだぜ」とかみたいに、「ひ弱な」とか言ってしまった時。

要は、主観的に物事を捉え、それを口に出したりしている時点で、休むべきサインだと考えています。なぜなら、思考と思考のはざまに入ることができていないので。だから、我が入ってしまう。ありのままをありのままで捉えることができない。

こんな時は情報を一旦遮断して、身体を伸ばして目をつぶり、眠ってみるといいのかなと考えています。コレは過去の経験上の話です。そういえば今日は、腰のせいか眠れてないことを思い出しました。もしかしたら脳の短期メモリがいっぱいなのかもしれません。デリートしなければ、ですね。

ここまで書いて、批評家はなぜあまりよろしくないのか、ピンときた感があります。批評が主観的な考えとなっている場合、そこには我が入り込んでしまっているから、かなと。

そうではなくてありのままをそのまま見て捉えること。主観で述べるのではなくて、客観的に捉えてそのまま述べる。意見を述べるなら、前提条件として客観的な状況なども述べておく。

こう意識してみるだけで、在り方とかセールスレターの書き方とかがいい方向に変わると思いますが・・・いかがでしょう?

ちなみに思考と思考のはざまに入ることって、いわゆるクリティカルファクターの壁を超えると似ているんじゃないかな、と思います。ワイズマンが言っていましたが、ボヤッと眺める。ミスターシンクロニシティもそう言っていたかもです。

後半、意味不明になりましたがこのまま残しておきます。なんか自分でブツブツ言い出したな、と思ったら、休むべきサインかもしれませんよ。

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コメント

  1. slowman より:

    これは素晴らしい洞察かと思いました。

    思考任せではなく、感覚任せみたいな
    ところにもそういうことと似たようなことが
    あるような気がします。

    • ono takamasa より:

      思考任せではなく、感覚任せみたいな
      ところにもそういうことと似たようなことが
      あるような気がします。

      そうなんです。思考と思考のはざまにあるものは、

      感情・感覚・記憶・想像力(ミスターシンクロニシティの言葉より)

      ・・・つまり、潜在意識だと僕は考えています。

      僕らが持つビッグデータという潜在意識に
      すでに答えが在るとするなら、

      まさに「感覚任せ」って一つの方程式かと。

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