誰のバスに乗るか。誰をバスに乗せるか。

春は別れと出会いの季節ということで、僕の周囲でもそういう光景を目にすることがあります。

地元をランニングしていると、制服に着られている高校生が自転車に乗っていますし、時間が合えば小学生の下校風景も目にします。

聞くと、すでに入学式は終わっているようで、中学校の先生をやる妹は、10年目か11年目ではじめて担任を外れたのだとか。コレもまた、毎年の好例と別れ、妹にとっては新たな出会いなのかもしれません。

そしてまた、セールスライターを志したり、独立起業を志したり、自分で決めることを志す社会人諸氏にとっても別れと出会いの季節です。

誰かのもとで学ぶ、誰かとともに学ぶということは、誰のバスに乗るのか、また誰をバスに乗せるのか、という例えがなるほどと感じています。

なぜならば、騒々しい人と一緒に乗れば騒々しいバスに。あらっぽい運転手のバスに乗れば、車内は殺伐とした雰囲気のバスに。満員バスにしかめっ面をし、周囲に無関心の人が乗れば、無関心で澱んだ空気のバスに。

笑顔の運転手が運転するバスに乗れば、車内は朗らかな雰囲気のバスに。アナウンスが歯切れよく親しみのある運転手であれば、声が聞こえる度にうれしい気分が満ちるバスに。席を譲る余裕のある乗客が乗るバスは、言葉を発しなくても車内にやさしさが感じられるバスに。

誰のバスに乗るのか。誰をバスに乗せるのか。

バスの例がわかりやすいのは、僕たちの身体は2つのバスには同時に乗れないことです。

この2つ同時に乗れないというのは、精神的な支柱としての意味でも同じだと僕は考えておりまして、中心となるコンセプトというか、価値観というか、コレは別々の2つを内包することは難しい。

もちろん、相対的な意味では2つ同時にもあるのですが、必ずどちらかが比率的に上回ると考えています。

なぜならば、人間は今この瞬間に2つのことを同時に考えられないからです。いわゆるマルチタスクも、一つ一つ片付けていることですからね(一応私見として)。

1日を24時間とした時、もっとも長く過ごす人、もっとも頭のなかで長い時間を過ごす人に、僕たちは影響されます。

その人と一緒にいることをよしとするのであれば、その人の運転するバスにのるのもいいですし、その人をバスに乗せるのもいいでしょう。

もし、その人と一緒にいることをよしとしないのであれば?

今すぐバスを降りることです。そして、その人をバスから降ろすことです。

そうしないと、自分の本音に従って生きる、魂に従って生きることは、できませんから。

別れと出会い。

春は、そのきっかけとなる季節だと思いますし、そう感じています。

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