自分のポジションを鳥瞰する。

羽田空港の第1ターミナルにいます。

JALを使うので、サクララウンジを特典利用させてもらっているわけですが、国内線のサクララウンジはスペースこそゆとりがあって落ち着くものの、ビーフカレーはありません。

こう考えてしまうのは、よほどJAL=サクララウンジ=ビーフカレーという式が成り立っているのだなとわかるわけでして、味の違いが本当にわかっているのかが微妙と露呈している僕ではありますが、皆さんにぜひ味わってほしいカレーの一つです。

これからセントレアに向けて飛び、その後は1時間の乗り継ぎ時間を経てバンコクへ。

バンコクに飛ぶとなるとパスポートが必要なわけですが、増補したパスポートも有効期限があと8ヶ月ちょっととなっておりますから、今回のバンコク往復後は新たにパスポートをつくりに行く必要がある、ということです。

前々から気にはなってはいたものの、インターネット上でちらっと拝見し、それを先日のグレートジャーニー後の名古屋駅でマキさんに聞いたことがありまして。

それは、日本人のパスポート保有率が以外に低いな、と感じたことです。確かマキさんも、そうですよね、と。

25%程度、とあるWEBサイトでは記載されていたのですが、外務省のWEBサイトを確認すると、5年有効と10年有効のパスポート保有者を合計すると、3,000万人ほど(だったと思います)。

こう数字で3,000万人、と書くとエラいたくさんの人数だなと感じるわけですが、25%と書くと「半分もいないのか」と感じるわけです。

妻はタイ国籍ではありますが、長男次男は日本国籍を留保している関係上、日本のパスポートも持っています。僕の両親や妹もパスポートを持っていますから、たぶんこの環境が25%という数字を低いと感じさせるのかもしれません。実際のところ、両親のパスポートは満期を迎えているので、今は保有していない、ということになるのですが、それでも最も身近な家族6人のうち、3人が日本のパスポートを持っています。

だから、50%はあるんじゃないかと。

家族の例を出すことはなくとも、年末年始やゴールデンウィーク、夏休みになると「出国ラッシュ」「帰国ラッシュ」という言葉を目にすることが増えます。だからこれを見るだけでも、「なんとなくだけどもっと多くの人々がパスポートを持っているんじゃないか」って思うわけです。

しかし、現在は25%。

ある時期に海外へと出ることもあった人もいるでしょうから、「保有していた人」を含めれば、もっと多くの人がパスポートを保有していたとは思います。両親のように。ところが現実的には、25%であると。

つくづく、自分の世界は標準的なものではない、木を見て森を見ないとはこういうことをいうのだな、と感じました。

客観的に眺めること、ここに自分の主観がかかるものと考えてその主観という色眼鏡を外すように、もしくは、「客観的な色眼鏡」をつけるようにすることは、セールスライティングを担う上では必要な技術だと思いますし、トレーニングし続けなければとあらためて思います。

また一方で、今時分のいる世界を客観的に認識することの大切さも。

自分がどう思おうと、他者から見られている自分が、ある意味正しいのですから。

自分がどう見られているか、自分のポジションはどういう位置なのか。

セールスライティングをする上でも、ビジネスや生きていく上で操縦桿を握り、コミュニティでリーダーシップを取るためにも、知っておきたいものですね。

では、飛行機に乗ってきます。鳥瞰するには、いい機会です。

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“自分のポジションを鳥瞰する。” への2件の返信

  1. 自己の客観的な観察

    一般的には、あるいはビジネスの場面においては、自己の客観的評価=(小野くんがいうように)自分の業績についての第三者的な評価、という意味合いで使われるかもしれませんが、よくよく考えていくと実は哲学的にはなかなか奥深く難しいテーマです。科学を生業としている私にとっても重要な視点であるので、2017年の締めくくりコメントとして2018年のご参考になるように書かせてください。小野くんやブログ読者の方々のご参考になれば幸いです。

    そもそも「客観(客体)」自体がこの世に実在するかどうか、あるいはそもそも「存在する」ということはどういうことか、というような哲学のお話は存在論と呼ばれ、ギリシャ哲学から今に至るまで未だ議論され続けている話題ですので、その辺の哲学の歴史についてはWikipediaやWebを参考にしてもらうとして、もう少し実践的な面から、私自身の日頃の科学研究活動や論文執筆活動の経験(主観的視点)を通して、「客観的視点」とはどういう視点のことを指すのか、ということを(頑張って)(余計なお世話かもしれませんが)書かせてもらおうと思います。

    通常、日常会話一般では、主観的=個人の(経験による、直感的な、感情的な、感覚的な、ある意味勝手な)意見(視点)、客観的=第三者的な(理性的な、論理的な評価に基づく)意見(視点)、的な意味合いで使われているかと思いますが、もう少し踏み込んで(深く?)整理してみようと思います。

    「客体(Object)」とは「主体(Subject)」によって観察される対象(動作・行為の対象)、「主体」とは動作・行為の「主(あるじ)」であり、観察している側を指し、通常の文脈では、「主体」と「客体」は別々の独立したものとして扱われます。これを主客分離とか主客二元論、などといい、現代の自然科学においてはこの考え方が基本であり、ほとんどの理論はこれを前提にしています。この主体-客体をきっちり分ける考え方の言い出しっぺ?(かどうかは定かではありませんがはっきり主張したの)はあの「我思うゆえに我あり」と言ったルネ・デカルトさんです。デカルトさんは、合理主義(合理論)の代表格として挙げられますが、経験主義(経験論)においても、主客分離は基本です。

    主観-客観という言葉(対比)は、実は英語では、主体-客体、と同じく、subject-objectになります。subjective-objectiveは日本語訳では主観的-客観的、あるいはsubjectivity-objectivityは主観性-客観性、などと訳されます。この主観-客観についてお話は(哲学の分野では)主に認識論や知識論の分野で議論されていますが、我々人間や動物を主体として扱う場合「認知主体」というふうに呼び、特に、自己の意識から発生する世界の見方(存り方)を「主観」、主観と独立した世界の見方(記述のされ方)を「客観」、と(日本語では)表現します。(小野くんが懸念しているように?)我々人間が世界を観察する限りにおいて、主観から完全に独立した事象の観察(記述)が可能なのかどうか、という点においては主観主義-客観主義といったテーマで未だ議論中ですが、自然科学一般においての注意点は、客観=第三者による評価、ではなく、客観=主観から独立した客体の記述のされ方、という点です。つまり、民主主義のような大多数の意見=客観、ではない、ということに注意してください。

    客体が実際に客観的に記述された(観察された)在り方(様式)で本当にそこに実際に在るかどうか(実在するかどうか)は、いわゆる存在論のお話になりますし、またこの主観と客観が一致するかどうか、というお話(議論)も長い長い哲学の歴史があります。

    で。
    小野くんが提示されたこの「自己の客観的観察」はこの主体-客体が同じものであるところに一番の難しさがあります(私見です)。さらに。観察対象になる客体自体が「自己」「意識」といったよく実体がわからない?ものが対象になっていることも難しさの一因です(私見です)。

    さて。
    いわゆる「科学(的方法)」で重要だと言われるものに、客観性、普遍性、再現性、合理性、論理性、実証性、などなどがよく挙げられます。これらどの視点も相互に関連していますが、一般的には、客観的でない、と判断されるものはどの雑誌でも論文として受け取ってもらえません。いわゆる自然科学とは、自然に起きている現象・事象(のメカニズム)を客観的に明らかにすることが目的ですが、では、この客観性を担保するために私たち(いわゆる自然科学研究者たち)が日頃注意しているのはどういったことか。特に重要視するのは(私の経験(主観)を踏まえて私見を述べさせてもらうと)

    1. 方法の厳密性
    2. 記録の具体性

    です。他の研究者に聞けば他にも色々ご意見はあるかもしれませんし、論文を書く上で注意する点は他にもいろいろあるのですが、ある現象をどのように観察して(方法)、どのようなデータが得られたのか(記録)、をこと細かく(厳密に具体的に)記録することがまず何よりも最も重要なことになります。その方法がその現象を調べるのに妥当かどうか、得られたデータからどのようなことが言えるのかどうか、問題設定や仮説設定は的確であったかどうか、しっかりと過去の研究をレビューしているかどうか、といったことも論文執筆上は大事なのですがそれらはどちらかというともう少しメタな「方法論」の問題になります(私見です)。

    例えば、高校あたりの理科の時間に実験をした人もいるかもしれませんが、高いところから空気抵抗の少ない重りを落として地球の重力定数(万有引力定数)を調べるときに、「ズシリと感じる重りを高校の屋上から落としたら、あー、と思う間に地面に落ちた」では、計算できないわけで、「◯◯gの半径XXcmの鉛の玉を地上△△m上から無風状態の時に落としたら◯◯秒後に、地面に到着した」というように「具体的」に現象を「記録」することが大事なわけです。理想的には空気抵抗がゼロの真空状態で実験できればより「厳密に」地球の重力定数を計算することが可能になります。

    では、なぜ、この方法の厳密性と記録の具体性が大事なのか?それは、誰がいつどこでその実験をしても同じ方法であれば同じ結果が得られることを保証すること(再現性)が一つ、具体的なデータを持って検証できること(検証可能性)が一つ、そのことを持ってその現象が偶然におきたその場限りのものでないこと(普遍性)を示すことが一つ、などなどで、つまり、その観察・記録がその実験をした本人の意思や感情など「主観」とは独立していることを示す、つまり、「客観的事実」であることを示す、ことにつながるから、です。

    ただ、記録しているものが具体的であればあるほど、逆にその記録はその客体の一部分の特徴しか記述できていないことになる可能性が高まります。例えば、マグカップを真下から見たら円形に見えますが、真横から見たら四角く見えます。見る角度によって形状が異なるので対象を観察する時には「具体的」の他に「多角的」に観察することが対象を客観的に観察するために重要になってきます。その結果、その対象が「マグカップ」であるのか「湯呑み」であるのか、といった記録されたデータから解釈する(客観的実在と心的表象を結びつける、あるいは抽象概念を当てはめる)作業には観察者(認知主体)の経験に基づく「主観」の影響を受けます。

    ここら辺で一旦まとめておきますと、世界を客観的に観察(記述)するために私が日頃注意していることは

    1. 観察の方法をきっちり設定(把握)する
    2. いくつもの特徴(指標)を用いて様々な角度から対象を観察し、
    3. データは具体的に記録する

    といったことに注意しながら

    4. 得られたデータに対して意味・解釈を与える時は主観の影響を受ける

    といったことに注意を払いながら論文として書き上げ、観察した現象を客観的事実として、世界に報告するといったことになります。もちろん日常の場面やビジネスの場面では、科学論文で要求される厳密性とは異なるでしょうし、厳密性正確性を犠牲にして良い場面も当然あるはずしょうが、1.方法の厳密性、2.観察の多面性、3.データの具体性、4.データからの解釈意味づけ、といった点に気を配ることで、日常会話の場面、ビジネスの場面においても、主観性-客観性、の度合いを推し量るヒントになるのではないでしょうか。

    例えば、小野くんは

    > 25%程度、とあるWEBサイトでは記載されていたのですが、外務省のWEBサイトを確認すると、5年有効と10年有効のパスポート保有者を合計すると、3,000万人ほど

    と書かれていまして、数値は具体的、引用元にも言及していますが、具体的な引用先が不明、外務省の調査方法も不明なので、こういったものは科学論文では方法の説明が不十分と判断されますが、日常のブログの文脈では十分「客観性」を確保している、と言えると思います。この25%(3000万人)が「多い」と思うか「少ない」と思うかといったデータに解釈を与えるのは、小野くんの言うように個人の主観になりますが、ここに他の国との比較データが加われば、その主観に対して(世界の国々に対する日本のパスポート保有率の比較判断において)客観性を加えることができるかもしれません。が、それもパスポート保有率という指標の一つの客観的側面にすぎないことは意識しておくべきことかと思われます(主観です)。例えば、東京だけで見れば、さらに保有率は上がるかもしれませんし、年代別で見れば、パスポート保有率が高い時代もあったかもしれませんし(バブル時代とか?)、年齢別に見れば保有率の高い年齢があるかもしれません。

    ——
    以上のことを踏まえまして

    自己の客観的観察

    を考え直してみますと、自己の何を具体的にどういった方法で観察、記録するのか、といったことが重要になりそうだ、ということが見えてきますし、その記録データに対して、自己とは何か、自分とはどういったものか、自分は今どういった状況に置かれているのか、といったことを自分で判断する際には、それまでの経験からくる主観が影響しそうだ、ということも予想できるかと思います。言い換えると、それが「自分を鳥瞰する」あるいは「客観的色眼鏡をつける」という表現になるのかもしれません。ただ、ここで述べられていることは最初にも書いたように、「客観的視点」についての私の「主観的視点」による記述、なのであしからず、です。そもそも「客観」といった抽象的な概念についての記述は具体的な自然現象の観察(記述)とはまた別次元の難しさがあると思います。また、自然科学一般において、このように客体は主体とは独立に存在し(主客分離)、対象(客体)を観察(経験)によって知覚可能である(経験主義)、というような客観主義的、経験主義的な見方が(多かれ少なかれ)自然科学の根底には根強く残っている、ということも最後に付け加えておきます。

    小野くんのブログ本文を超える勢いの超長々失礼しました。2018年以降のいつか何かのご参考になれば幸いです。良いお年を。

    1. 言葉にしてくれてありがとうございます。

      そうそう、と思いながら拝見しました。

      コレもディスカッションテーマですね。

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