妻からの忠告。異文化の理解とそれを置いておくこと。感性。

写真はドリアンです。先日タイのチャンタブリーに行ったら、子どもたちと僕とお母さんを置いて、従弟と二人で市場でたらふくドリアンを食べていました。

30分は待ちましたかね、、、食べたドリアンは5キロとか言っていたかな。じゃあ従弟と2.5キロずつ。コンビニで売っている2リットルのペットボトル1本と、500ミリリットルのペットボトル1本か、スゲーな、、、とは僕の感想です。

しかし僕にドリアンを食べろ、と強制しなかったことには感謝です。美味しいと思うことは思うのですが、妻の祖母、亡くなったラオウさん(妻の祖母の名前です)のように、ドリアンを両づかみでむしゃむしゃまではまだまだ、なので。

妻を見て世の中の女性を定義するつもりもありませんし、少なくともこれまで出会ってきた中国やトルコ、ドイツ、カンボジア、ヴェトナムの女性は妻とは異なる文化を持ち、それに沿った在り方をしていると感じています。

しかし割と多くの女性は…うーん、、、男性もかな、「自分がこうだ」と信じたことを、特に身近な人には押し付ける傾向がある、と僕は感じています。

まあ身近な人にはまだしも、遠い人に押し付けるのはどうかと思いますけどね。押し付けるのではなく、意見するのであれば同意ですが。

前々から言われていたんですけど、あなたのLINEプロフィール写真、顔がないから取り替えて、それじゃアンラッキーだよ、と再度言われたので取り替えました。

顔出ししないほうがいいんじゃないか、と思ったので顔無し写真を使っていたんですけれど、こんなふうに説得されたら話を聞こうじゃないか、という気にはなります。

最初に送られてきたのがこれで、、、

次はこれで、、、なかなか伝えようとする意志が感じられますよね、、、

取り替えて、というので、まあ確かに妻にしてみれば、僕が幸運かそうでないかは重要なのでしょうから、取り替えることにしました。

元の写真の顔部分を出して、プロフィール写真を変更。この写真です。

妻に、取り替えたよ、というとスタンプが送られてきて、安堵した模様です。

これ、文化の違いと言っていいのかどうかわかりませんが、顔出し写真と顔無し写真、イメージ画像として顔の無い写真をあえて使うことも広告や記事ではありますから、妻はここでラッキーかアンラッキーかを判断するのか、という気づきは、エラい学びになりました。

コピー書いているとその世界のものがすべてであると錯覚しがちですが、実は読み手からすると「イメージ写真とは言え顔が無い、、、アンラッキーかも」なんて思っているかもしれません(?)。

常に自分のものの見方は、これまでの経験という色眼鏡がかかっている。

この色眼鏡を外すことができるかどうかは置いておきまして、少なくとも相手の色眼鏡を理解しようとすることはできます。

そのために必要なことは、その人と一緒に過ごすこと。一緒に過ごして、観察することです。

その人を観察して理解して、その人を自分の中にそのまま置いておく。自分の考えや価値観に染めようとしないこと。違うからって同じにしようとせず、そういうもんだと置いておくこと。

これが異文化を経験してきた人間が結婚するなり、一緒にやっていくなりするコツだと僕は思っています。

そしてもう一つ。

例えばですが、同じ映画を観て涙を流したり笑うなりするか、同じものを食べて表情がほころんだり目が輝いたりするか、同じものを見て美しいと感じられるか、

感性の方向、っていうんですかね、ここは大切だと考えています。

正直、妻の考え方とか好みはよくわかりませんが、、、彼女が泣く時は僕も泣きますし、不思議ですよね、タイ語の映画やテレビで聴き取れないのに、僕もそれを観ていて涙が出るのですから、、、感性の方向は寄り添っているのかもしれません。

こんなことを書いていたら穏やかな気持ちになりました。感謝ですね。

P.S.
ドリアンランドで妻に撮ってもらったドリアンの木です。よく見ると、実がなっていますね。

ドリアンの実、どこにあるかわかります??

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“妻からの忠告。異文化の理解とそれを置いておくこと。感性。” への2件の返信

  1. 毎度どうも。

    他者の心の問題。心の哲学。とても興味深いところです。

    「そういうもんだと置いておくこと」

    私は「受け入れる」という言葉を好んで使っています。ただし、言うは易く行うは難し、ですね。「理解する」というところにも色々な次元やレベルがある気がします。

    自分に利害が及ばない限りはそれほど問題は大きくならないのですが、問題は、自分と相手の利害が一致しないとき、相手が自分を染めにかかってきたとき、などでしょうか。お互い受け入れあおう、と言葉では言いつつも、どちらかにストレスがかかる状況というのはどこの夫婦でも良くありそうです。

    「一緒にいること」のもう一つの大事な点は(小野くんも時々言っている)「世界観」や「コンテキスト」の共有だと思います。言い換えると、自分の色眼鏡の上に相手の色眼鏡をかけて世界を見る、ということでしょうか。と同時に相手が相手の色眼鏡の上に自分の色眼鏡をかけて世界を見る。このように自分だけではなくて相手も含めて相互にできるようになると、自分の色眼鏡を通した相手の色眼鏡を通した自分の色眼鏡が見えてくることがあったりします。このお互いの色眼鏡を通した見え方が同じようになった時にツーとカー的な「共感」が生まれるのかもしれません。

    私たち夫婦の場合は、このような哲学的な問題点の話を二人でして、問題点の共有、を通して世界の見方の違いを理解しあって、その結果として、共通世界観が構築できているのでは?と思ってます(お互いの違いをお互いが理解し合う、ことが共通の理解?という一つ上のメタレベル世界観ができているかもしれません)。

    フッサールさんの間主観性の本やヴァレラさんの身体化する心を読むときの参考にしてみてください。いつか何かのご参考までに。

    1. ありがとうございます。

      受け入れる、と表現しようとしたところ、
      受け入れているわけではないな、と気づきまして
      「そういうもんだと置いておく」という文章になりました。

      理解しようとすることはできるのだけれども、
      特に言葉で双方が理解し合うことはできないのではないか、
      と僕は感じています。

      感じ合う、共感、になるのかなぁ。

      論理として理解することはできないけれど、
      感じ合うことならまあできるかも、
      というのが今のところ感じていることです。

      本の紹介もありがとうございます。

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