難聴を受け入れるという潔さ。

ビート・ザ・コントロール
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お楽しみ様です。小野貴正です。

神職養成講座で珍しい人と出会いました。僕と同じ難聴。難聴の程度はともかく、子音が聴き取りにくかったり、補聴器を付けていたり、障害者認定されるほどのものではない、というあたりで似ている方です。

見事に僕が授業中に悩ましい状況を把握してくれる人で、この配慮力はこれまでであった人の中でも随一というほど。もしかしたら同じ難聴だから、たまたま悩みどころが同じだよね、っていうところで波長が合うのかもしれませんが。それにしたって、普通の耳を持つ人にはわからないところがわかるというのは、心強い。これまでの人生ではじめてです。同じ難聴を共有できる人が出現したのは。

潜在的には、もっと多いと思うのですけどね。実際難聴の人や補聴器をつけている人には何人か出会ってきましたので。しかし、ここまで症状が同じってことはなかった。

例えばですが、僕の難聴でもっとも伝えにくく、しかしもっとも伝えたいことのひとつに、「子音が聞き分けられない」というものがあります。これは「あかさたな」が「あああああ」に聞こえるようなものです。

「おはし」が「おかし」に、「おしんこ」が「おしるこ」に聞こえますし、「さとうさん」が「かとうさん」に聞こえます。

「難聴なので大きな声で話してもらえますか?」と言い、大きな声で話してもらっても実は、子音を聞き分けれらないことには変わりはない。「おはし」は「おかし」ですし、「おしんこ」は「おしるこ」ですし、「さとうさん」は「かとうさん」に聞こえる。また逆もしかり。

じゃあなんで僕は会話ができるのかというと、文脈で判断しているからです。会話の流れってありますから、それさえわかれば会話をシミュレーションすることができます。ココでこんな回答をしたのだから、たぶんこんな回答をするだろう、と。こんなふうなことを考えながら、会話をしている、ということです。

つまりシミュレーションがうまくいかないと、もう話がそれるそれる。まあ、これは今では仕方がないとしているのですが、普通の耳を持っているなら、これを説明してもわからない。補聴器をつければクッキリ聞こえるだろうとまでは思わなくても、聞こえているに違いない、と思われるようです。

このあたりの感覚が共有できる人と出会った、というわけで。飲み会言ったら会話できなくてシンドいですよね、とか、自己紹介って難易度高いですよね、とか。単語レベルの話ってまず聞こえないですし、お風呂場での話も反響してさらに聞き分けられなくなるのでよろしくない。

ああ、この感覚を共有できるってなかなか貴重だよな、と思いました。

最近の僕は「難聴なんです」というと、店員さんが身振り手振りで話してくれたり、表情豊かに伝えようとしてくださることが多くなったので、まあ難聴もなかなかいいよね、と思っていたのですが、神職養成講座で出題されるテスト問題自体を聴き取れなかった時はちょっとアワアワしました。先生もそばに来てくれ、大きな声で話してくれたんですけど、難しい。聴き取れないものは聴き取れない。「規則」が「委嘱」に聴こえたり。前に座っているクラスメイトに、漢字を見せてもらってホッとしましたが。

そんな僕の様子を後ろから見ているのか、その難聴同志はエライ配慮してくださいます。ありがたいですよね。しかも、エライ積極的。

どちらかと言うと一番後ろをのんびり歩いて皆の様子を真似する僕とは対照的に、先頭を歩んでいく感じです。神職の志望動機も僕とは真逆。ああコレは面白い人に出会ったな、と。ある意味、スタンド使いに出会ったというか。

自分でも言っていましたが、周囲に理解されず、仕事ではコミュニケーションに難あり。面接でも会話ができるかどうかで思い悩むなど、心が折れそうになったこともあったとのこと。

しかし神職養成講座に参加する彼は、僕から見たらエライ潔い雰囲気。もうコレをやると決めている感じがします。必然性。在り方。そういったものが感じられるから、スッと一本の柱が眉間から背骨を通って立っている感じ。ああ、いいな、と。

こういう人は神社に必要だよな、と感じました。色々な考え方はありますが、平日は会社勤務で土日で宮司をやる人もいらっしゃる模様。個人的には、コレだと地域住民の方々、氏子さんたちにとってはあまりうれしくはないだろうな、と。

それを全うしようとする姿勢がある人に、人は何かを感じて感動するんじゃないかな、って思う。

まだどうなるかはわかりませんが、今後も付き合っていければいいなあ、なんて思います。いい感じですね、神職養成講座。

ああ、そうそう。潔さという意味では、神職に全てをかけるのも、セールスライティングスキルの獲得に人生をかけるのも、同じなんですよね。

自分という器に、手段ややり方を入れる、という意味で。

何度も何度も挫折して自分という存在に絶望して、それでも立ち上がって前へと進んでいく。繰り返し自分の中を覗き込んでは前進への力に変える。

人は何故落ちるのか?

這い上がるためだ。

バットマンビギンズより。

P.S.
一方で、コレも考え方なんですが、すべて到達すべき在り方に繋がっているという見方もあります。つまり、落ちることはないってこと。両極を見る。参考までに。

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