知った気にならず、確認することの大切さ。

仕事でも普段の生活の中ででも、会話が噛み合っていないんじゃないか、という場面は見かけるものですが、ソレが自分自身のことだったりすると、気づかないことってあります。

言葉の定義が共有できていない、もしくは共有されているだろうという気になっている場合、人は違和感を感じるものだと思いますが、それに蓋をしてしまっていることもまた見かける光景です。

今さらこの質問してもいいのかな、とか。今さらながらこの言葉の定義を確認してもいいのかな、とか。

例えば、僕からダンコレのオウンドメディア記事を依頼されて書いたことがある人は、「ダンコレ」と聞くと「ダンディズム・コレクション」のことだとわかるわけですが、

ダンコレの案件を依頼されたことがない場合、またこのブログやメルマガを読んで間もない場合は、「ダンサーズコレクション」とか「男男是是」とか(笑)、そんなふうに思ってしまっても無理はありません。

なかでも難しいのは、なんとなく自分の理解がズレていると感じているのだけれども、そのズレがなんなのか言葉にならない場合。

わからないから、言葉にすることができない。いわゆる、わからないことがわからない状態です。

こういった状態で会話を進めても、また仕事を進めていても、ハシゴをかけちがっている状態ですからますますお互いに「あれ?離れていっているな」「噛み合わないな」ということになります。

ですから、分からない状態が何であるかわからなくても、それを口にすることが大切なんだと思うわけです。

何も言葉にしないとそのまま相手は「わかっているだろう」として話を進めるわけですから、ここで「待った」をかけておく。すると、相手もこちらのわからない状態を思案するようになる。それで、言葉の定義なり文脈の解釈なりを確認していく土壌ができる。

今仕事をしていて思うのは、急ぎでやらなければならないときほど、この解釈ズレを避け、対話する相手と同じメガネでモノゴトを見るようにしておく必要がある、ということです。

「急ぎで」ならば、どの程度の納期を急ぎと解釈するのか。

「たくさん」ならば、どの程度の売上をたくさんと解釈するのか。

形容詞や副詞の解釈はもちろん、名詞や動詞を含めて解釈に揺らぎが生じることはほとんどだと考え、決して相手も自分と同じ解釈だと思わないこと。そして、解釈のズレを埋めるために相手の解釈を確認すること。極力、自分がどう解釈しているのかを相手に精確に伝えること。

仕事や生活で、コミュニケーションが円滑にできるかどうかは、パフォーマンスに直結するなぁと感じています。

そういう意味では、同じ言葉の解釈をするコミュニティ内で仕事を依頼されやすいというのは、うなずくところです。

明日は訪タイ前の税理士さん打ち合わせと歯科健診。あとはパイナップルケーキを持って、中目黒の知人にお礼を伝えに。

2017年はあと20日。エラい学びの年だと感じています。

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