正しさとは何か?

ビート・ザ・コントロール
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昨晩はクレイジーパパの不定期イベントでしゃぶしゃぶ発祥の店にてしゃぶしゃぶを食べ、デザートにヨーグルトとカレー。島田さんはこのヨーグルトのためにカレーやハヤシライスを付け合わせで食べると表現するほどでして、僕はというと牛すじ煮込みカレーのためにしゃぶしゃぶを付け合せで食べるという感じ。

カレーは飲み物とは食いトレ部で体験したことではありますが、程よく煮込まれたお肉の食感とクリーミーなカレーの雰囲気がフィットしていまして、

まさに民藝運動のカレーである、という印象を覚えました。

今朝はベニ屋でチキンカツカレーを食べに行きまして、カレーの消費量全国一に貢献し、鳥取県を応援してきた次第。

食べ終わったあとのコーヒーからは結構なこだわり具合がうかがえまして、これはまた来たい店だな、となりました。

そして鳥取大丸の開店とともに靴屋さんに向かい、ビモロのシューズを手に入れ、それまで履いていたアディダスの赤いシューズとはお別れし、その場でビモロを履く。

履いているだけで違う、とは鈴木さんのセリフだったと思いますが、暗示にかかりやすいのか素直なのか、本当に履いているだけで普段使わない筋肉が使われる感がありまして、

これがウサイン・ボルトの秘密なのかと現在新幹線に乗り込んだところなのですが、一人悦に浸っています。

さて、正しさとは何か?

昨日のクレイジーパパ定期セッションのテーマだった「正しさ」について、昨日はディスカッションをしたのですが、普段から感じていた僕自身のものの見方への違和感のようなものが明らかになった、相変わらず脳のエネルギーを使う場となりました。

僕はよく「カメレオン」とか「八方美人」とか、自分を評することがあるのですが、これは正しさという視点からすると、「社会的な正しさ」を基準にして話をしている場合であり、

一方であまりに人には言わないけれども(実は言っているらしいけれども)、いわゆる「主張」的なことを話す場合は、「個人的な正しさ」を基準にして話をしている場合なんだな、と認識することができました。

例えば社会的な正しさとはわかりやすいところでいうと、「割り込みは良くない」「無銭飲食は良くない」「浮気は良くない」とかですね。

僕の場合、自分以外の人それぞれを評価する時は、「社会的な正しさ」を軸にして行うことが多いです。その人個人個人の状況を加味して判断する分だけ、もしかしたら社会的な正しさの範囲が個人領域まで及ぶ程度には広くて曖昧なのかもしれませんが、

社会的な正しさを軸にして評価する分だけ、仮に10人聞いたら8人程度の人は「まあ、そうだよね」と賛同してくれる、そんな感じです。

しかし、「個人的な正しさ」を軸に話をする場合、おもしろいことに社会的な正しさと逆になることがありそうだ、と昨日のディスカッション中に感じました。

世の中的にはAだけれども、個人的にはBである。

当然、世の中で信じられていることとは逆のことを僕は正しいと信じているわけですから、公にはなかなかいいづらい。

ほかの人が理解してくれればいいなぁ、程度には思っているものの、自分ひとりしかそれを信じなくてもそれはそれでありだと考えているので、ポロッとこれを言ってしまった結果、ピーピー言われたくないわけです。

人に対するアドバイスもそうで、基本的には「僕はこう思いますよ」ということはあれど、それを社会的な正しさのようには言わない(自分で社会的には違うと知っているからですね)。

おそらくではありますが、自分ごととしてアドバイスしなければいけない時は、社会的な正しさがどうであれ、個人的な正しさを伝えるようにしています。

責任を持つ場合ですね。責任を持ちたくない場合、持ち得ない場合には、言いにくい。

相手を尊重している、というのはもちろんありますが、社会的な正しさであれ個人的な正しさであれ、それが僕の信じる正しさとは逆であろうとも、そういう相手への敬意を大切にしたい、というのがある。

なかなかに奥深いテーマでおもしろいな、と思いながらふと感じたのは、仮に「父として」という枕詞が付くのであれば、息子たちが仮に社会的には正しくなくとも、彼らの正しさを肯定できる父であろう、ということ。

人と違うことにはたぶん、責任が生じるんだろうな、とも。

大いなる力には大いなる責任が伴う、だったかな、スパイダーマンは。

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コメント

  1. より:

    非常に難しいけど今なお続く面白い?哲学的問題だと思われるので一つコメントです。

    おそらくですが、クレイジーパパで議論された「正しさ」とは、倫理的、道徳的な「正しさ」いわゆる「正義」に関わる見方であったのだろうと想像します。ここら辺おそらく法学部で勉強してきた小野君の専門かと思うのですがいかがでしょうか。

    一方、科学や知識論、認識論で言われるところの「正しさ」とは、いわゆる「真理」に関わる見方であり、古典的には「正当化された真なる信念(Justified true belief)」が「知識」と言われますが、「ある信念」が果たしてどう正当化されるのか(はたまた、されないのか)長ーい歴史があり、小野君が昨年勉強したジョンロックもその議論の過程で登場する一人になるかと思います。またジョンロックは哲学、政治の両方で「正しさ」について議論されているので面白いですよね。

    「真理」と「正義」、重なる部分と重ならない部分とがあり、これまた難しい(面白い)ところではありますが。。。ぜひまた議論を続けて欲しいと思います。コメント連投でお邪魔しました。

    • ono takamasa より:

      いやー、、、法学部では勉強してきたとは言えないので、、、ノーコメントで。。

      「正しさ」に関しては、マーボーくんがいうように、
      「正義」に関わるものも議論しましたし、
      同時に個人的な正しさについても議論しました。

      正しくないものなどなく、異なる正しさがぶつかった時に・・・
      などなどですね。

      議論、また今月続ける予定ですので、また書ければと思います。

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