ハリドワール。ガンジス川の沐浴。聖地巡礼。

昨日の夕方。

早朝にハリドワールに到着し、ガンジス川で手と足だけだけれども沐浴をしたので、

これで沐浴経験したし、もういいかな、と思っていたところ、ワイルドサイド部のはるか嬢が、

「私は夕方に沐浴します〜」

と話す。

あ、また来るのかと思いながら、でも僕は見学でもしていようと心に決め、夕方を迎えました。

バザール(?)を通り、再びガンジス川へ。リシケシュと合わせるとこの日三度目のガンジス川。その流れはまさに急流でして、子どもたちが泳いでいるのだか溺れているのだかわからないけれども、流れに乗って笑い声を上げている姿はなかなかにたくましいものがあります。

そういえばタイでも、妻のいとこたちがチャオプラヤ川上流の源流で、エラく大きな魚がたくさんいる中で飛び込んで泳いでいる姿を見て、その水の濁り具合といい似ているなぁ、と思い出しました。

ガンジス川でも身体全体で飛び込んだら、魚がツンツンしてくすぐったいのかな・・・なんて想像するだけでちょっとくすぐったくなりました。

都市伝説的にチャオプラヤ川にはワニがいて・・・なんて話もありますが、ガンジス川にもワニがいて、ツンツンされたら怖いなぁ、とか。

はるか嬢だけが沐浴をするはずがなく、どうもワイルドサイド部の部員たちは沐浴する気満々の模様。

島田部長など水着で乗り込んでいましたし、イノックさんも水着持参。

中平さんなどガンジス川に到着早々ボクサーパンツ一丁になって、「行ってきます」とガンジス川に飛び込み、幹事カンちゃんはインド女子風にTシャツ来てワーイとジャボン。

なんだよ、みんな入る気マンマンじゃないか、インドでお腹をやられるとか水には注意だとか言っていたのに、何を考えているんだよ、と思っていたのですが、

その瞬間、「ビビったらゴー」を思い出し、

足だけ浸かっていた僕はそのガンジス川の冷たさに神経が研ぎ澄まされたのか、

一度ガイドのチャマンさんが待つ荷物置き場に戻ってシャツとタイパンツを脱ぎ、赤いボクサーブリーフ一丁になって、皆が待つガンジス川へジャボン。

おおぅ、冷たいぃ。

皆の様子を見ていると、インドの方々の真似をして、なんと潜っているではありませんか。

なんだよ、皆ガンジス川大好きなんだな、と思いつつ、僕もジャボンと潜る。

ガンジス川の冷たさに慣れてきた頃、やはりというか流石というか、島田部長が、

「対岸まで泳ぎましょう」

と提案。まぁ、想定内ですけどね。

二人一組で泳ぎ始め、その急流に身体を預けてクロール。

もちろん最短距離を泳ぐことは容易ではなく、ガンジス川に揉みに揉まれてはるか遠くの対岸に到着。

泳いでいるんだか溺れているんだかという姿は子どもたちと同様で、予想通りに島田部長はじめ僕もガンジス川の水を飲み込む。泳ぎながら

「ああ、ついにガンジス川の洗礼を受けたか」

と思いながら、まあ、インドでお腹をやられるのは儀式だからね、とある意味清々しい気持ちでした。

ちなみにその後ガンジス川の洗礼にあったのは、島田部長だけのようで、他の皆は大丈夫な模様。このあたり、さすがの島田さんだよな、と。

赤痢とかコレラとか、大腸菌とかですね、そういったものがありますので、基本的にガンジス川の沐浴はオススメする次第ではありません。

しかしインドの方々にとっては喜々としてガンジス川に飛び込んでいくあたり、本当に大切な儀式なのだと思います。

急流に身体を沈め、何度も何度も、ジャブンジャブンと潜る。知人たちときた方々は潜る度に破顔一笑。

いい空気でした。

ハリドワールでは夕方になるとプジャ・アールティという祈りの儀式があり、インドの子どもたちにとっては「アールティに連れて行かないぞ」という言葉が何よりもお仕置きになるそう。

それほど、ガンジス川と祈りはインドの生活に密着していることがわかるエピソードです。

雨が降る中始まったプジャ・アールティは、トルコのサフランボルで聞いたコーランの調べのようで、集まる人々が口々に祈りを唱え、両手を天にかざし、手を合わせる。

なんというか、こういう信仰って生活の中に根ざしたもので、インドやタイのような、「そこに信仰が在る」感は僕らにとっても大事なんじゃないか、ってやっぱり思いました。

私見たっぷりですけれども、ルーツが大切だという話は、信仰とも関わると思っています。

自分の両親、先祖への感謝とかも信仰であり、ルーツ。

コア・バリューとか価値観が書き出せない、書き出してもピンと来ないというのは、意識的に今持っている言葉で書きだそうとしているからでもあり、

それよりは先祖のお墓参りに行くほうが大切ですと僕が考える理由は、ルーツが大事だと考えているからなんですよね。

そんなことを感じた、ハリドワールでの沐浴でした。

今日は夕方に高速鉄道でデリーへ。

明日、ワイルドサイド部の部員が日本に戻るのを見送ったあと、明後日に僕はタイへと戻ります。

次の聖地巡礼が、楽しみです。

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ハリドワール、リシケシュ。人もバイクも牛も平等な国で考えた。

インドに来て一番最初に印象に残った言葉が、「牛も平等」というもの。

デリーでもコインバトールでもマイソールでも、牛は街の至るところにいましたし、インドにおいてはそれが当然と思うようにもなりましたが、

ふと僕が持っていた主張を思い出しましたので、それを書いてみたいと懷います。

ガンジス川の上流であるハリドワールには沐浴をしにインドの方々が集い、まさに聖地巡礼という雰囲気を感じさせる街でして、手と足だけでもとガンジス川の水に浸してみると、意外な冷たさに神経がピリッとし、前夜のアーユルヴェーダのおかげか覚醒していた脳がさらに研ぎ澄まされる、そんな感じを受けました。

その次に訪れたリシケシュは、島田さんが言うにビートルズが修行をした場所らしく、ツアー幹事の伊藤カンちゃんが言うにはヨガの聖地という位置づけだそう。

ハリドワールからさらに北の山へと入るこの街は、ハリドワールよりは落ち着いたたたずまいをみせ、雰囲気的にはむしろこちらのほうが、沐浴も厳かな感じを覚えました。

他のインドの街並み同様、ハリドワールでもリシケシュでも牛が人と同じように歩き、生活をしているのは変わらず、特にオモシロイと思ったのは、リシケシュに掛かる吊橋も牛が往来していること。

行く手を指示する人はおらず、牛が生きたい場所に行きたい時に行く。人と同じように橋も渡るし、車を避けるかのように端の方を歩く。

人も牛も、バイクも車も、猿も犬も平等に空間を使うというのはいいなぁ、と感じました。

ふと日本で感じる違和感を思い出したのですが、それは「歩行者優先」という空気。

もちろん、歩行者を優先することはいいことなのかもしれませんが、その結果歩行者側に、「歩行者は優先されて当然」という空気を醸し出していやしないか。車は歩行者を避けて当然というような、上から目線を投げかけていやしないか。

僕は、歩行者が優先されて当然という空気には違和感を感じておりまして、

なぜなら、それは本来譲り合いの気持ち、利他的な気持ち、優しい気持ちといった、自然と発生する気持ちから優先されるものだと考えているからです。

弱きを助け、弱きを守る。そんな、気持ちの賜物が歩行者優先なんじゃないかなぁ、と。

しかし歩行者優先という空気からは「それが当然』という雰囲気を感じ取ってしまい、車やバイクが走っているのにそれらに注意を払わず、払わないどころか道路を歩くかのような人々の姿を見るたびに、美しくない、と思うわけです。

私見ですが、タイでも中国でも、車やバイク優先という感覚を持っています。

でもこれはとても健全なことのように思えるわけで、なぜなら衝突して危険な目にあうのは、人のほうだからです。

僕は車もバイクも個人的に持っていないけれど(妻は持っていますが)、安全を考えたら車やバイク優先という社会のほうがいいと思ったりもします。

そんなことを思い出しながら、インドは誰もが平等に道を利用していることを眺めておりまして、これはアリだよな、と思った次第。

たとえ自分の私有物や私有地であっても、自分が優先されて当然、ということなど、ありえないのだから。

駅のプラットフォームで始発電車を待つ列や満員電車の優先席を見るたびに感じる違和感も、同じことです。

権利とか優先されて当然とか、そういう利己性よりも、利他性。

そういう日本になればいいなぁ、と思います。

僕が眺める範囲での私見ですので、そうではない日本の地域もあると思いつつ、記しておきます。

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