自分という器をアップデートし続けることもまた、ビート・ザ・コントロール。

現在、那覇空港にいます。

出発前にブログを書いておこうとしたらお腹も空いたということで、A&Wへ。さすがにルートビアには手が出ないですが、そしてハンバーガーもちょっとボリュームがありそうなので身体が受け付けそうもなく、サイドメニューとコーヒーを頼み、現在待っている最中です。

コーヒーと言えば、昨日島田さんとミッキーさんとで行ったコーヒー専門店、あれは美味かった。苦味はキリッとしているのだけれども、まろやかで後味がスッキリ。ホットとアイスの2種しかメニューがないという、まさにコーヒー専門店なのですが、アイスの方もやや甘くしたコーヒーにほんのりミルクを氷のところに浮かべるだけという、まさにコーヒーの漆黒さこそ主役という感じでして、とても好感が持てました。そしてもちろん、ウマイ。

島田さんや木坂さんと出会うまでは、そういうお店を知っていることにどれだけの価値があるのだろうと思っていたのですが、ああ、これならばお金を払う価値はあるし、実際にお金を払ってでも・・・と考える人がいることもよくわかります。

ミッキーさんが「僕が知らないお店を知っていて・・・」と驚きとともにつぶやいていたことが、象徴的でした。

さて、ふと気づいたことを。

「小野さんはどこまでやり続けるんですか」みたいなことを、直接的にも間接的にも耳にします。これはいい評価としての質問なのか、そうではない評価としての質問なのかはどちらにも受け取れるわけですが、コア・バリューに従う限りやり続ける、すなわち死ぬときがやめるときだろうなんてことを考えています。

こういう風に書いてしまうと(いや、本当は書かないほうがいいと思ったのですが、話してはいるので書いてしまうと)、「いやいや、僕はとてもそんな覚悟は・・・」とか言う方々もいるわけですが、たぶんそれは、たとえばセールスライティングにしてもマーケティングにしてもプロモーションにしても、それをやる必然性がないからであって、これをやらなければならない、という必然的な環境にあれば誰もがやる、誰もがやり続けると僕は考えています。

極端な例ですが、何も考えていなくたってごはんは食べたいし、眠りたいし、女の子と触れ合いたい。それって必然性があるからそうなのであって、スキル習得も僕の感覚では同じです。

実際、ビーコンのプログラムに参加している後藤さんにしても日比野さんにしても角舘さんにしても、冬野さんにしても・・・ああ、サウナ男子ケヴィンにしても、毎月書き続け、メンバーによっては毎月記事を納品し続けるのも必然性があるからなんだと思っています。

もちろん、書かなければ・・・と悩み続けているメンバーも、悩み続ける必然性があるってことで。そこを抜けたら書き続けられるんだと思いますけどね。

やり続けると言っても僕は何もセールスレターを依頼され続けることをやり続けているわけではなくて、コーチングを行ったり、License to beatのような講座を行ったり、セミナーを開催したり、そしてオウンドメディアの記事を発注したり、周囲の方々を観察しながら、必要だと考えたことを形を変えてやり続けています。

よく、僕のようにはできません、という方々は、僕がそれこそ寝ないで毎日やり続けており、そんなことできないと想像しているようですが、

いや、それは僕だって難しいと思います。島田さんに一昨日、「普通で安心しました」のようなことを言われて(たぶん)笑ってしまいましたが。

例えば僕と合宿を行ったことがあるならば、日課こそやれど寝過ごしたりすることもあると知っている人もいるでしょう。

だから、人が想像するような超人ではない。同じように、成長し続けようとしているし、そのために思考し、行動し続けている。

しかし、僕が意識していることのひとつに、「ある場所にいると、その場所にいる人達のようになる」というのがありまして、それは長時間一緒に過ごすようになると、その場所の基準が、そのコミュニティの基準が自分の標準をつくるんですね。

毎日写経するコミュニティならそれが標準になるし、2日に一度ならそれが標準になる。

一緒にいる人のように人はなるというのは、プラスのこともそうでないことも同じです。

だから僕は常に、自分自身が参加するコミュニティのステージを上げ続けることを意識していますし、ビーコンのコミュニティに新しいメンバーを入れ続けることを意識しています。

アプレンティスにはじまり、賢者舎、木坂さんのマスタークラス、そして島田さんのクレイジーパパコミュニティと、毎年参加するコミュニティが変化し、また増えていくのは、

僕がそういう基準を持っているからだと思います。

コア・バリューですね、成長し続けたいというか、変化し続けたいというか。

同じ場所で同じメンバーと居続けることは、居心地が良くなる場合もありますし、そういう場所は必要でしょう。

しかし常に変化させ続ける行動を取らないと、自分という器を超えていくことは、難しい。

自分という器を望むようにアップデートさせ続けるために、基準とか限界値とかはどこまでも超えていきたいものです。

そのためには、誰と一緒にいるか、居続けるかって大切だなぁ、と思いつつ、あ、飛行機の時間なので、このへんでー。

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自分との約束を守ることに、潔さはいらない。

現在、香港にいます。

初めての香港をタクシーでホテルまで移動しましたが、夜景スポットからその景色を眺めているわけでもないのに、180度以上の視野角で広がるビル群など建造物の姿に心打たれました。

空港の出口に直結した電車(空港の到着ロビーから電車が見える)乗り場や、空港から中心部までのハイウェーなどなど、人工的によくつくられているなぁ、と感じまして、美しさも感じます。

食べた麺は上海のほうが数段上でしたし(店によりけりでしょうが)、食べものの物価も日本以上と感じましたので、日本のありがたみもまた、体感したところです。

僕ら日本人にとって、いい国だと思います、日本は。

何を持ってより良い暮らしなのか、果たしてより良い暮らしが必要なのかどうかは分かりませんが、少なくとも僕にとっては極を見にいくという欲求というか、うーん、そもそも極ってわかるのだろうかという疑問もあるのですが、それでもより良く生きるためにもただ知っておきたいというのはあります。

長男次男を連れて、世界の至るところで生活できるようになるよう、行動していこうと香港の様子を見たらあらためて思いました。

さて、人によっては潔さの定義が異なるとは思いますが、例えばもう無理だとして何かを諦めたり、自分はこの程度だから、これは苦手だからと自分で自分の限界を決めてしまうことを「潔し」とするような雰囲気を感じまして、ちょっと伝えておきたいことを書きます。

ワイルドサイドの島田さんも言っていたと思いますが、自分の限界を決めるのは自分、だったかな、そんな感じの言葉には僕自身その通りだなぁと思いますし、それは先日の食いトレ部活動で木坂さんから、

「やってみると意外にできることがある。だから、初めてのことをやってみるべきなんですよ」

のようなことを言われ、たくさんのとんかつなどを食べた後にカツカレーを食べてみたら完食できたり、ということを体験しました。

思えばマラソンでも筋トレでもそうだと思いますが、もうダメだ、という声を発するのは自分の脳なのか心なのかわかりませんが、その声に耳を傾けて立ち止まることは普通だと思います。

自分の話で恐縮ですが、なぜ僕が毎朝の腹筋を55回やると書いておきながら59回やるかというと、常に設定値、これを限界値とも言えるかもしれませんが、その上を行く自分であろうとしているからです(なら腹筋59回以上やりましょう、という声も聞こえてきそうですが、やらない理由は会った時に質問してくださると)。

アプレンティスの課題でも皆が1本書くなら2本、いや、もっと書こうと思って3本4本書いて提出していきましたし、「そんなにセールスレターを書けませんよ」という声が聞こえたのかどうかは覚えていませんが、1ヶ月に10本のセールスレターを書いて納品してきました。

今でも思うのは、1ヶ月に10本書けるなら11本でも12本でもできるということでして、なぜなら僕は、自分自身に限界を定めることを、避けるからです。

もちろん、できるかできないかはやってみないとなんとも言えないですし、できることならそれはやりたくないというのも本音だったりしますが、

別にできるできないをはっきりさせる必要はなくて、その時になればできればいいだけ。

やりもしないのに、自分の思い込みを外してもいないのにそれをできないとかいうのであれば、変化をすることなどできるはずがない。

いつだってブレーキを踏むのは、自分なのですから。

自分はこうであるとか、自分の好みはこうであるとか、確かにそういうものはあるのでしょうしそれを否定するわけじゃない。

だけれども、よりよい生活を送ろうとか、今の自分を変えたいとか、そういうふうに願うならば、今の自分の思考と行動を超える必要がある。

それはきっと、誰の目にも明らかでしょう。

自分という器を超えるためには、自分を知るという現在地点の把握は大切ですが、その先にあるものはその現在地点を飛び越えることに他なりません。

セールスライティングでもなんでもそうですが、自分ができる範囲でやるとか自分のペースでやるとか、それさえも決意が必要であって、やり続けるという、白黒はっきりつけない在り方が求められるんだと思います。

誰もができることを誰もがやらないレベルでやる。

いつだってこの限界を超えるということが、問われているんだと思いますよ。

変化したいなら、潔さなどいらない。

自分との約束を守るためなら、何があってもやり続けて守ること。

そこに潔さがあるのだとしたら、やりきったときだと思います。

きっとそれは、自分が死ぬ時にわかるのかもしれませんが、そういう人生を送りたいと思う人にこそ、僕はともに歩みたいと思いますし、価値を提供できる人でありたいと思う。

自分はこうであると決めてしまうのはもったいないなぁと思いまして、記しておきます。

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自分の器より大きいことは、伝わらない。

現在、京都にいます。

明日はぽっちりライフプロジェクトにスタッフ参加し、翌日と翌々日はビーコンの皆さんと対面セッション。17日は名古屋に移動して19日から東京。

移動の際にできればなくしたいものはスーツケース。地下鉄や電車、バスに乗る時はもちろん、新幹線に乗るときも結構な場所を取りますし、周囲の人にとっても自分にとってもうれしいものではない。

特にこの間の蒲田駅から京浜東北線に乗った際、ない方がいいなぁ、と思いました。

究極的には手ぶらで移動して行く先々で仕事ができれば、と考えていますが、今それを実現するために何をするとしたら・・・ホテルをとってそこに荷物を送る程度。

これだと普通だよね、ということで、他の方法を編み出せればいいなぁ、とコーヒー飲みながら思案中です。

ところで京都。

そういう予感はありましたが、まぁエラい人が多い状況でして、グランヴィアのラウンジも席待ちの列ができているほど。

地下街のスターバックスとか他のコーヒー屋さんは言わずもがな、という感じでしたので、少し上がったところにある珈琲館まで移動して、現在これを書いています。

珈琲館PRIDEというキャッチフレーズに惹かれて注文した炭火珈琲。これを「飲み方」に書かれたとおりにストレートで一口、ミルクを入れて一口、ブラウンシュガーを入れて一口と飲んでみたところ、うお、これウマイ、って感じでしたので、

PRIDEと言うだけはあるなぁと感じつつ、人の多さに酔い気味だった気分も、薄っすらと遠い世界のようになってきました。

今、注文したパンケーキが届いたんですけど(珈琲館PRIDEの炭火珈琲とのセットがセオリーみたいでしたので)、そのパンケーキを見て隣の女性がドギマギしていたので、パンケーキと僕のギャップに驚いたのかな・・・。

先ほどなんばから京都に向かうバスの中で、昨日の『ワイルドサイドを歩こうよ』ブログで島田さんが書いていたことを思い出していたのですが(思い立って沖縄に日帰りで行ってきた、手ぶらだけれどもおみやげの柿の葉すしを持って、という話です)、

え、そんなことするのか、というようなことをまたやってきたなぁと思ったわけでして、ますます底知れぬ感が増してきたように思います。

僕は「人間の器」という言葉をカリスマ性とか格式とかそういう文脈ではなく、人間誰もが器のようなものだという意味で使うことが多いのですが、

今現在の自分の器よりも大きいことを言ったり「さもやっているかのように」見せかけても、瞬間最大風速で終わるかそもそも単に声を大にして叫んで終わるか程度で、

うまくいかないと考えています。

島田さんの場合、実際に行動と結果で見せてくれるので、この人の器は底知れないな、と思うわけです。

何かを人に伝える際は、今現在の自分という器を客観視して、その上で主観的に情熱を込めて、人に役立つように淡々と伝えることが大切だと考えているのですが、

世の中を見渡してみると、それができていないか、やっぱり自分の器以上のことを書いてしまっているとか、そんな印象を受けます。

自己肯定感とか自己重要感とか、まぁ、存在意義ですよね、誰かから認められるという。

それを求めるのはごく普通ですし、そういう意味では自分の器以上に背伸びしたくなることはわかる。

背伸びしてもいいけれど、やり方があるのだと僕は思っていまして、

それが「行動と結果」で示すこと、です。

宣言して、実際に行動して、その行動と結果を書く。宣言せずとも、実際に行動して、その行動と結果を書き、話す。

行動と結果の分だけ、自分という器は広がります。

広がった分だけ、人に伝えられることが増えていくんじゃないかなぁ、と僕は考えています。

学んだことをさも自分がオリジナルであるかのように語ったり(普通に考えれば、世の中で語られることの大部分がオリジナルなはずないのですが)しても、苦しくなるだけ。

だって、行動と結果でつくられた自分という器よりも大きいことを語ってしまっているし、それは人に伝わることがないから。

行動と結果を増やし、特に初めての経験を増やして自分という器を広げる。

年収目標とかそんな小さな器に自分を閉じ込めるのではなく、底知れず天井知らずの自分という器を広げる。

人は誰もが、ナンバーワンになれるんだと僕は考えているのですが、そんな生き方をする人々が増えればいいなぁ(そしたら同時に、オンリーワンですからね)。

ということで、これからホテルに行ってきますー。

良い日曜日を!

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自分という器を更新する(南国土佐の朝は夏でも寒い)。

今朝の目覚めは、高知県のれいほく地区。

ここがどこなのかを言葉で説明することはまだできないのですが、高知自動車道を南国インターチェンジから進み、次のインターチェンジで降りて少し走ったところにあります。

高知自動車道を走ったことがある人ならご存知かもしれませんが、というか、割と新しい高速道路はほとんどそうかもしれませんが、山を抜けるルートであることがほとんどだと感じておりまして、

結構な上り道を山へ山へと入っていく。

そんな印象を受けました。

奥まるほどに、ああ、なんとなくここは鳥取の智頭に似ているなぁ、と感じ、徳島県を流れる吉野川がれいほく地区から徳島県へと向かうのかと気付いた時は、この地区の潤い、人の温かさに納得がいった次第。

僕の記憶では吉野川流域はその昔(今もなのでしょうね)、肥沃な土壌で作物がよく育ったとか。

それはどうやら今でも同様のようでして(れいほく地区がです)、昨日地元の牛や鶏などをいただく機会があったのですが、

「え、高知にこんな美味しいものがあったの?」

という感じに美味しかったんですよね。

お肉以外にも昨日立ち寄ったれいほくファーマーズカフェのパンなんか、電撃が走るほどの衝撃的旨さを感じましたし、まぁなにからなにまで美味しいわけです。

夜のバーベキューをつくってくれた地元のおっちゃんがワインを飲みながら、なぜれいほく地区の食べ物が美味しいのかを、れいほく地区に限らず普遍的に通じる話なのですが、してくれたんですよね。

牛や鶏は食べるもの次第でうまくなるし、水温が冷たければ魚の身は引き締まるし、他にも寒暖差があるとなんたらかんたらとか(ど忘れしました)。

これまで僕は、高知の食べ物と言ったら東洋町甲浦で食べる皿鉢料理がそうだと考えておりまして、まぁ、これは私見たっぷりなんですけど、

「うお!これはウマイ!」

とはならないわけです。ストライクゾーンが広い僕は、なんでも美味しいと言って食べますが、食べた瞬間に目が見開き、

「・・・う、う、う・・・う、ウマイっす」

のように声にならないような感動はない。甲浦のおじや父には恐縮なのですが。

高知といえば暑いしなんか乾いて干からびているし、潮の香りがいつもするしで、なんというか、塩害ってあるじゃないですか、だから食べ物が美味しいという印象は、視覚的にも嗅覚的にもありませんでした。

しかし、このれいほく地区も高知県ですし、南国土佐という括りでいったら同じなんですよね。南国はともかく、土佐。

しかも今日目覚めたら、長袖のレインジャケットを着ても寒いじゃないですか。朝から鼻をすすりまくりです。

24時間エアコンを付けても暑かった甲浦という、僕にとっての南国土佐の情報は更新されました。

初めての体験、経験をすると自動的に自分という器がアップデートされるもの。

そういう意味ではやっぱり、発想は移動距離に比例するというのは、よくわかる。

それだけ多くの経験を、発想の引き出しと僕が読んでいる潜在意識に、蓄えていくのですから。

南国土佐という言葉もそうですが、木を見て森を見たような気にならないこと。

これはとても大切なことだなぁ、と感じた、れいほく地区の朝でした。

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自分一人で行動することは殻に閉じこもることと同義。

今日は名護から北に上って美ら海水族館へ。

おそらく僕一人なら、まず行かないであろう水族館へ行ってきたわけなんですけど、入ってみるとこれがまたジンベイザメとか3匹もおりまして、なかなかの絶景なわけです。

誰と一緒にいるかは大事だといいますが、こと自分の経験から外に飛び出るなら、誰と一緒にいてもいいのかもしれません。その人についていけば「え、こんなところに普通行かないだろう」という経験ができますし、その経験が自分という器を広げていくと考えていますので。

美ら海水族館のあとは、万座毛へ。

イメージとしては網走のオホーツク海に面した断崖絶壁を彷彿させるような場所でして、オホーツク海が東シナ海に変わり、北国が南国へ変わった、ある意味真逆の土地で同じ経験をしたというか、そんな感じ。

風がエライ強いことも同じでしたね、そういえば。

美ら海水族館もそうですが、なぜ万座毛という僕一人ならまず行かない場所に行ったのかというと、外国人の方々に人気の場所を探してみたら、そこだったからです。

僕が海外を歩くときには多分現地の方が不思議に思うように、海外の方が日本を歩くときは僕ら日本人にとっても不思議な事ってあると思います。

え、そんな場所に行くの?なんてことも結構ありまして(逆の立場なら、僕もそう思われているんでしょうけど・・・中国なら、昔話題になったニーハオトイレ、とかですね)、記念撮影の場所が日本人と同じところもあればそうでないところもある。自動販売機の前、とか。

これは確かに、日本ほど自動販売機が充実した国って見たことないですし、あれを市場調査に使ってオススメを勧めてくるなんて、他の国ならやらないんじゃないかってくらい、日本はある意味すごい特殊な方向に進んでいると思いますから、記念撮影するのはわかる。最近はタイでも自動販売機を見かけるようになりましたが、だいたい日本で昔使われていた自動販売機の旧型機です。旧国鉄の車両もタイで使われていたような、そういえば。

ほかには、日本人が庭でバーベキューをしているシーンを動画で撮影していたり、ですね。トルコとかタイ、カンボジアで僕も似たようなことをしていた気もするので、海外と国内の行動というのは違うものだなぁ、と。

僕がなんでこんなことをやっているかというと、実は理由はないのですが・・・強いて一つ理由をつけるとしたら、新しい体験をして自分という器を広げ、自分を客観視する高度を高めたいからかなぁ、と思います。より高い位置から鳥瞰して全体を眺められるようになるというか。

自分を主観的に見ることが普通である人は、おそらくなんですけど、自分が発する言葉や思考する言葉の「我」、「エゴ」に気づかない。自分ではそういう認識がないんだけれども、自分で自分を評価する言葉を使っているから、人によっては高飛車感を感じてしまう。

不要なことは言わないほうがいい、と僕は考えているのですが、その不要な言葉の種類に「自分を評価する言葉」があると思います。形容詞とか、ですね。

自分一人で行動することも必要ですが、そればかりだと自分という殻に閉じこもるようなものなので、誰かと一緒に行動するといい。

その誰かを観察することで、また新しい経験をする自分を眺めることで、客観的に見る習慣が身につく。

すると、自分の言葉をも客観的に眺められるようになり、それは他者からすると聞き心地のいい言葉になる。

言葉の選び方は客観性を持ってこそできるものかもしれませんね。

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