必然性、ある?

コア・バリュー
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お楽しみ様です。小野貴正です。

昨日ベネマンのブログを見たときに、今年中に1,000回超えるな・・・というようなことを考えている自分に気づきました。それでコレはいよいよやめどきかな、と。「やる言い訳」は脳からウジャウジャ出てきそうですけどね、、、

1,000回超えるとか1万回超えるとか、そういう数は僕の場合、目的にはならない。たぶんコレをゴールにしていたら書き続けることはできない。書くなら書くなりの必然性が必要。そう僕は考えています。

ベネマンのブログの場合、今でも新しい読者さんを連れてきてくれますからコレはコレで役割の一つを実行してくれています。しかし、タイで人生の3分の1を過ごすための、というタイトルからすると、コレはすでに成し遂げているので目的を見失っている感はあるわけです。

僕は朝晩の日課を第2領域の仕事としているのですが、ココでやることは将来の自分への投資になるものを置いています。ルーチン化することで、ただやるだけで効果のある状態を生み出す。時間対効果が高くなるようにする。

以前も書きましたが、そろそろベネマンのブログは不定期更新に切り替え、別のメディアを更新し始めます。別のメディアはタイでタイバーツを得るための事業でもありますから、僕にとっては必然性がある。だからコレはやり続けることができる。

最近、賢者舎のスカイプゼミでも仕事でもビーコンコーチングでも、必然性という言葉をよく聞きます。もしくは、よく思います。コレは一つの、ゴールへと向かう動機なんじゃないか、いや、コレなしにゴールへと向かうことはできないんじゃないか、って思う。

40代に入った僕にしてみれば、必然性なしのスキル獲得もライフスタイル獲得も難しいんじゃないか、って感じています。一方で10代とか20代とかの若い人たちなら、お金そのものが動機になったりステータスが動機になったりもするのかもしれませんが、どうなんでしょう。

思えば今のライフスタイルを志向したのだって元はといえば、子どもが何か選択する時に、お金を理由にしてそれを諦めない、という願望があったからです。だから時間も場所もお金も自分でコントロールできるライフスタイルを獲得しようと決めた。

コレが人よりいい暮らしをするとかマンションを買うとか一軒家を買うとかだと、僕の場合はちょっと違う。もちろんあればいいし、欲しいは欲しい。でも、何かを差し出してでも欲しいかって言うと、そうはならない。

なぜならそれらはなくても僕自身生活できるからです。だから必然性がないってこと。

何となく思うのですが、それなりの年齢になれば単にお金とかモノって余程の状況にある人でない限り、動機にはならないんじゃないかな・・・。

だから自分の中に秘める必然性を探すこと。必然性っていうのは言い換えると、コア・バリューでもあるんじゃないかなって最近はよく思います。

P.S.
子どもにとっては見て聞くものすべてが必然性ありなんだろうな、って思います。この視点、大事だと思うんですけどね、、、

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