アンコール・ワット。

ビート・ザ・コントロール
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シェムリアップにあったゲストハウス「チェンラ」が閉館と聞き、なんだか一つの時代が終わったように感じるのは気のせいでしょうか。

当時チェンマイの女性に恋していた僕はカンボジアに行くことなど二の次になっておりまして、先輩から「この写真をチェンラの女将さんにわたしてくれ」というお願いをされていなければ、行くことがなかったと断言できるのがカンボジアでありアンコール・ワットです。

タイのお隣の国ゆえ、いつでも行けるだろうという錯覚があったんですよね。今となれば、近いところほど行く機会はなかなかないと思っていますので、近くて遠い国、それがカンボジア、という印象ですが。

当時は格安航空会社など、ヨーロッパでライアンエアーが、確かアメリカでサウスウエストがまあまあ聞くようになっていた程度で、バンコクからシェムリアップに飛ぶにはバンコクエアウェイズがほぼ独占状態(確か)。だから、え、距離の割に日本へ飛ぶのとそんな変わらないんじゃ・・・と思った記憶があります。

そんなバンコクシェムリアップ間も今やエアアジアなどのおかげで往復で1万円とちょっと。

悪名高きアランヤプラテートからシェムリアップという、ピックアップトラックで砂煙の中をゴトゴト揺られて(ときにはパンクして立ち往生して)行くというバックパッカーは果たしているのだろうか、と思うほど、エラく飛行機での移動が便利になったと感じています。

そうはいってもバス路線の場合、確か数百円とか数千円で行ける路線ではありますから、価格だけ見たらバスなのでしょうが。

シェムリアップ空港にプロペラ機で降り立ち、入国審査をすませてカンボジアに踏み入れると、目についたのは真っ黒に日焼けしたバイクタクシーの男。

何人かいた中でもヨートという彼を選んだのは、多分その瞳の深さに惹きつけられたため。

街を歩くとわかりますが、当時のシェムリアップにいたカンボジア人は皆、瞳に悲しみをたたえているような雰囲気が印象的で、

たぶんそれは、ポル・ポト派による虐殺、街の中に点在するキリングフィールドが証明するその歴史、Danger Minesといたるところに掲げられた標識と無関係ではないと感じたものです。

僕の世代とその親の世代がほぼ丸々いないと言ってもおかしくないカンボジアの歴史。

ヨートの後ろにまたがり、バイクでシェムリアップ空港からシェムリアップの街へ。チェンラに泊まることは決めていたので、ヨートには「チェンラへ」と伝えただけ。やがて「チェンラ」につくと、ヨートが「アンコール・ワットはどうする?」と聞いてくる。

なんでも歩いていけるような距離ではないらしいし、アンコール・ワットを内包するアンコール遺跡群はエラく巨大でして、その暑さのせいもあって歩くのはかなりキツイ。

当時安宿に泊まるバックパッカーを標榜していた僕ではありましたが、ヨートなら人も良さそうだし、1日3ドルとか5ドルならまあいいかと思い、ヨートを3日かな、運転手として雇うことに。

ではとりあえず、明日からアンコール・ワットにいこうとなり、その日はチェンラにチェックインし、女将さんに頼まれた写真を手渡す。

チェンラ前の庭ではチェンラお抱えのバイクタクシーの運転手やパックパッカーたちが集って酒盛り。

「酒飲めないんだよ」

なんて言葉が通じるはずもなく、なんだか湯気が出そうなウイスキーを乾杯して一気飲み。そうそう、カンボジアの乾杯は一気なんだよね・・・。

果たして翌朝、ヨートがエラく僕を起こそうとしてくれたらしいけど、見事に起きれなかったというアンコール・ワット初日でした。

続きは明日。

P.S.
写真は沖縄のガジュマル。タ・プロームというアンコール遺跡群の一つではこのガジュマルが遺跡に溶け込むかのような雰囲気になっておりまして、その静けさに怖くなった思い出があります。僕一人だけだった、ということもあると思いますが。

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