意識しないけれども誤解がありそうなことに、主張することは対立をもたらすのではないか、というものがあると思います。ちょうど昨日のブログで、ロンサムワンさんが次のように書いてくれました。
小野さんの文章を読んでつくづくすごいなぁと思うのは、
島田さんへのアンサーソングと言って対立せずに、
しかもわかりやすく、シンプルに書かれていることです。とても素人にはできる芸ではないなと思います。
書くということは頭に汗をかくとほぼイコールのように思うのは私だけでしょうか。
僕が求めていた質問が来た、ということで今日はここから展開していければ。
「島田さんへのアンサーソングと言って対立せずに」
とあるように、意識せずとも人は島田さんの「お楽しみ様という挨拶が好きではない理由」に僕がなにか主張するとしたら、対立の構図を想定しているのではないか、と考えています。「好きではない」に「対」して「好きな」理由を書く、のように。
主張と主張が異なる場合、客観的に見たら対立の構図というものはあるのでしょうが、大体においては「自分と違うこと」=「アイツは敵だ」という方程式によって導かれてしまっているに過ぎないと考えるようになりました。
かつて僕は、25歳の時に県議会議員選挙に立候補しようと思ったのですが(確か当時の彼女にフラレて見返してやる!的な)、その時のことを振り返ってみると、「まだ早い」とたしなめる周囲に対してことごとくその逆を返していたものです。
「まだ早い」には「いや、遅すぎるくらいです」
「失敗したら立ち直れないぞ」には「いや、失敗しないですから」
「お前に何ができるんだ?」には「そういうあなたは何ができるんですか?」
こんな感じ。ちょっと書いていて笑いましたが、血気盛んでした。対立の構図に持っていったんですよね。なぜなら、「自分自身に主張がないから」。
相手の逆をつけば少なくともその相手にとって僕の意見は主張になる。僕にしてみれば、ただ単に正論振りかざして相手を論破したかっただけなんですけど。意見をくださるのは50代とか60代の方々でしたから、「あなたたちが日本をこんなにした」みたいな、まあ10代20代の大学生のようなことを言っていたわけです。コレは論破にもなっていないじゃん!
そんな僕も41歳になっていますから、25歳当時と比べると経験を積んでいるわけで、主観という思い込み、我を外してものごとを眺められるようになってきました。
多くの人が主張だと思っていることは、単なる主観的な思い込みに過ぎない側面もある。
一文にすると、こんな感じ。他の人でも言えるようなこととか、ですね。本来、主張を主張として認識するためには、客観的な視点こそ必要なのでは、と考えています。
島田さんや木坂さんが言うように、主張というのは
「◯◯だと思っていたが、実は△△だった」
や
「賛成する人がほとんどいない、自分にとって重要な真実」
を考えることによって導き出されるものだと僕は考えていますが、これらは客観的な視点がないと導きだせない。なぜなら、「◯◯だと思っていたがそうではなかった根拠」「賛成する人がほとんどいない根拠」を述べることができなければ、「実は△△だった」や「自分にとって重要な真実」が主張にならないからです。
根拠の無いことを誰かが話すとき、「それって君の思い込みだよね?」と人は思うもの。思い込みを主張にするためには、根拠が必要だ、ということです。
ここでひとつ、僕の主張を。
多くの人は対立はあるもの、と思っているかもしれないが、僕はそもそも人と人との対立は存在しえないと考えている。
こう考えているフシがあります。こう書くことにさえ抵抗があるのですが、意見と意見ならば対立することもあるかもしれません(抵抗がある理由は、一見真逆に見える意見すらも実は、対立ではないと考えているからです)。しかし人と人が対立することはないんじゃないかな、と。本来、ですね。
じゃあ何が対立を引き起こすのかというと、主観とか我とか。思い込みの自分がそうさせるのではないか、と。
自分と異なる意見、主張を目の前にした時に、一歩下がって俯瞰、鳥瞰して眺めてみたら、客観的な視点で脳にインプットすることができる。こうなると、異なる意見でも「なるほどね」と思えたり、踏み込んで考えてみると「一見逆でも同じ主張だよね」と思えたり。
特に2016年にはいってから、僕からコア・バリューとかセールスコピーとかのアドバイスを受けた人は、「両極をみてください」とか「真逆をみてください」という言葉を使っているな、と気づかれると思います。
この両極を見る、というのはワイズマン今井先生や島田さん、末広さんからよく聞いた言葉です。
僕が神職に興味を持った理由というのも実はここに一つあって、末広さんが「やまとことばは、真逆の意味を常に持っているのです」という話をしてくださったから。
たとえば「ひ」という「やまとことば」には、「氷室」の「ひ」と「火」の「ひ」という意味がある。「氷」と「火」。真逆の意味を持つ言葉を「ひ」は持っている、ということです。
そしてこれが、対立というのはないんじゃないか、と考えた理由でもあります。だって「氷」と「火」が同じ「ひ」によって表現されているわけですから。対立というよりも表裏一体。すべてを、含んでいる。対立は、ない。
こう考えると、僕が形容詞を使わないほうがいいですよ、という理由も僕のなかにおいては見えてくる。
形容詞というのは「白い」とか「美しい」とか「早い」とか、状態を形容する言葉と僕は認識しています。よく僕が話す、「形容詞を使わないほうがいい理由」は、「状態は人によって感じ方が異なるから」。「白い」と聞いて、パールホワイトを思い描く人もいれば、クリームがかった白を思い描く人もいる。感じ方を委ねてしまうと、セールスコピーにおいては意図したことを伝えられなくなる可能性がある。だから、使わないほうがいいと(音楽や絵画、写真など芸術の場合は形容詞の使い方こそものをいいそうです。名詞と動詞との合わせ技とか、ですね)。
そしてもう一つ。「白い」と書くと「白くない」、「早い」と書くと「早くない」のように、対立の構図を引き起こしやすくなるから、です。コピーにおいて対立の構図を引き起こしてしまうと、文章から離脱する口実を与えてしまう。コレだとお互いにとってよろしくないよね、と。
そもそもやまとことばが「両極を含む」言葉なのだとしたら、僕らはそれを知っているはずだ、と。遺伝子について、僕はまだ語ることができないのですが、日本人という遺伝子情報があるのだとしたら、両極を含むことに違和感はないんじゃないかな、と。
一見対立するものでも客観的に認識することでバランスをとることができるようになる。中庸、ですね。「対立しない」ということは「対立する」ということでもあるから、両方を「置いておく」必要がある。清濁併せ呑む。
だから、両極を見る。すると本来人は、対立するものではないんじゃないか、ってなってくる。
僕が誰のどんな行動も認め、しかしそれについて時には真逆の考えを述べるのはそういうことです。内在する真逆の意味を認識することで、バランスをとってほしいから。
過ぎたるは及ばざるが如し。
食べ過ぎも飲み過ぎも、遊び過ぎも勉強し過ぎも、インプットし過ぎもアウトプットし過ぎも、よろしくない。行動を昇華させるのはバランス。アウフヘーベンは両極ありき、ですから。ああ、そうそう、
木坂さんの「7つの鍵」ライティングセミナーに僕が惹かれる理由は、ここにもあります。例えば、
「男性性vs女性性」
「ロマンvsベネフィット」
「レトリックvs誠実さ」
のように両極を含むことを知っているからです。しかもこういった一つ一つの考え方を統合して使うといいですよ、と言う。
テクニックも在り方も。WHATもWHYも。HavingもBeingも。バランスですよ、と。
島田さんの「全部やってみるといいですよ〜」も、この視点からするとバランスなんじゃないかな、と。
コレを探求し続けることが、ビート・ザ・コントロールになるんだと、僕は思います。
P.S.
自己投資は一生ものの財産だと、最近は認めるようになりました。かつては、「アプレンティスと賢者舎で自己投資は終わりかな・・・」なんて考えていた時もあったんですけどね。
P.P.S.
僕が自分を評して「カメレオンです」とか「八方美人です」というのもこういうことです。
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