朝起きてパタヤの海を眺めながら日課を行い、シャワーを浴びてリビングを見ると長男と妻が宿題をやっていました。
様子を見に近づいてみると、英語の宿題の模様でして、それを確認した僕がその場を離れようとすると妻が、
「朝ごはん食べないの?」
と聞いてくる。
お腹いっぱいだからいらないよ、と言うと、「朝は食べないとダメでしょ」ときた。
え、普段家にいる時朝ごはん食べていないじゃん、と思いつつ、そういえば牛乳やヤクルト的なものは子どもたちに食べさせていたなと思い、朝ごはんという言葉の定義が明らかになったことに目が覚めて、
なんだか良い朝だな、と思うに至りました。
ちなみに朝ごはんはどうなったかというと、ホテルに付いている朝食を食べに行くのは宿題のさまたげになると言ってルームサービスを頼むとのこと。
え、このホテルのごはんたぶん美味しくないよ・・・なんてことを口に出さないまでも眉間に皺を寄せてしまったあたり、余裕が足りんと自分に一括。そして深呼吸して笑顔に(その後食べてみたら普通に美味しかったです)。
頼んだものはかにチャーハンとタイ風焼きそばと称されるパッタイ。
どうも長男と妻でかにチャーハン、次男と僕でパッタイを食べる計算の模様でして、次男は僕の幼いころ同様、卵アレルギーなのでチャーハンダメなですよね、卵が基本入っているから。
抜いてもらえばいいのに、と今気づいたことには笑ってしまいましたが。
アレルギーといえば俺はエビアレルギーだからエビ抜いてと頼んだら、エビは私が食べるから、とのこと。何だよ、エビ食べたいのか・・・と笑いつつ、ブログに戻りました。
今タイ時間で11時AM前。13時からスカイプでの打ち合わせが一本入っておりまして、20時からのものは延期になる模様。
今井先生からの連絡を待って、パタヤのどこかで挨拶、という感じかなとシミュレーションしつつ、そういえばプールで子どもたちを遊ばせたいと妻が言っていたなと思い出しまして、どうしよう、とも思案中。
どこにいても仕事ができるというのは、どこにいても仕事ができてしまう状況とも言えるわけでして、個人的にはこの環境を日常と感じられなければ、
会社勤めのほうがいいと思いますし、フリーランスで一本いくらの請負をやっていたほうがいいと思いますし、いわゆる事業を営むというのは志向が遠いんじゃないかな、と感じています。
実務こそ業務委託契約などを結んで誰かに任せることは出来ますが、事業とか会社の方向性、マスタープランを決めたり数字に応じて手を打ち続けたりというのは、どこにいても仕事ができてしまうことを良しとする人ならではの特権だとも思うから。
僕自身が今そういう状況に身を置きながら、感じていることです。
そうはいってもセールスライティングをはじめとするライティングを学んで、時間と場所の自由を得るんだと考える人たちがいることは知っていますし、僕の周りにもそうしようと自分を変化させ続けている人たちはいます。
ライティングの仕事を請けながらスキルを磨く、という環境を用意することはできるのですが、ここに思考を変化させる方法を加えることがなかなかに難しい、というのが今僕が直面している課題です。
一緒にいる人のように自分はなる、という言葉を知っていても、それをああそういうことかとスッと来る人は、その人自身がそういうことを体験知る必要がある。
どうしても安心できる領域から、人は出ようとしませんから。というよりも、拒むんですよね、無意識のうちに。
しかしここを飛び越えてこそ、経済的な自由はもちろん、時間と場所の自由が在る状況になるもの。
僕は自分の経験したことしか語り得ないと考えていますので、そういうことをどう伝えれば伝わるのか、そんなことを頭に置き続けています。
コメント
参考コメです(小野くんの思考の仕方が広げる参考になれば)。いわゆる「理論」や「シミュレーション」という科学的方法の良いところは経験してないことを語れる(予測、制御、検証できる)部分です。「語れる」ということをどのように考えるかで意見は変わると思いますが、ここら辺はいわゆる「合理論」「経験論」の対立を参照してもらうとして。さて。
「思考を変化させる方法を加えること」
別の言い方をすると(たぶんですが)「考え方の考え方をどう考えるか」と言えるのではないでしょうか。これ、まさに哲学のお話ではないですか?
科学の世界でもそうですが、専門性を高めれば高めるほど、他の分野の考え方や根本的に考え方が異なるような理論を受け入れづらくなる傾向があるような気がします。もしかしたらライティングもスキルを磨けば磨くほど実践してきたその磨き方以外の方法を受け入れづらくなるのではないでしょうか。このように一つの考え方に固執することを回避する方法として私が実践していることは大きく二つあります。一つはメタな視点を持つこと。メタとはそのこと自体を含む世界の視点、そのこと自体を問う視点、と言ってもいいかもしれません。「考え方の考え方」というのはメタな視点と言えるかもしれません。このような視点を持つことで他の考え方のベースとなっているものが何かを理解しやすくなって、別の考え方を受け入れやすくなります。実践的な分子生物学を仕事としつつも科学哲学に興味があるのはこういう理由もあります。もう一つは多角的な視点を持つこと。事実は一つであっても説明の仕方はいく通りもあるはずで、一つのことに対していろいろな説明の方法を試みます。研究でも一つの方法で検証して終わりではなくて何通りも別の方法で一つの仮説を検証していきます。また同じことを実現するための方法は一つとは限りません。例えばライティングのスキルを磨く方法はおそらくいく通りも方法があるはずでしょう。
メタな視点と多角的な視点、いつか何かのご参考になれば。見当違いのコメントであれば流してください。長文失礼しました。
ありがとうございます。
メタな視点と多角的な視点、多分ですが、そういうことを考えています。
考え方の考え方をどう考えるか、面白いですね。
北海道にいこうと思ったら北海道にたどり着いていればいいわけで、
そこにルートも手段もたくさんあるように、方法はひとつとは限らない。
例えばいいかどうかはさておき、とはいえ・・・
セオリーみたいなものはある・・・暗黙知?みたいな。
合理論や経験論などなど、ありがとうございます。
話ができる時を楽しみにしています。