コミュニケーションかー。

ビート・ザ・コントロール
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現在、実家にいます。

真面目で気ままなミスターGこと後藤さんから連絡ありまして、

「小野さん、秘密の相談があるんです。マイルと交換で相談いいですか?」

ときたので、これからスカイプでセッションです。

ビーコンコーチング特典をフル活用するあたり、さすがの後藤さんだなぁと思います。

想像するに、やっぱりデニムスーツよりもダンコレバッグですよね、という相談が来そうなので、両方買っておけば、と回答しておく予定です。

結果は公表できたら、お知らせします。

ところで今、母がどこからかかってきたモンブランを食べているのですが、それとコーヒーを合わせて飲んでいたら「うまいー」とうなってしまいました。

母は僕を見るたびに「アンタもっと痩せたほうがいいよ」というのにも関わらず、ケーキ食べなさいとか、ごはん食べなさいとか言うので、

うーん、コミュニケーションが成立しているようで成立していないなぁ、と思う次第。

思うにコミュニケーションて、なかなか奥が深い。

私見ですが、こういう風に生きたいとか、こんな自分になりたいとか、そういう欲求というのは他者との関係性のなかから生まれてくるものであり、

自分一人しかこの世の中に人が存在しなければ、そういう欲求はないんじゃないかな、と考えています。

つまるところ欲求というものは、もちろん食べるとか寝るとか、そういう生理的なものもありますが、殆どが人とのコミュニケーションを通じて生まれるものなのかもしれないなぁ、と思いました。

このコミュニケーションというのは、言語やそれ以外を含めてのコミュニケーションです。

いわゆる、非言語領域も含めて、ですね。

確かに想像してみると、あの靴がほしいとか、あのスーツがほしいとか、ダンコレがほしいとか、僕らは広告なり口コミなり、何らかのメディアを通じて思うわけですが、これだってコミュニケーションですし、他者との関係性の中かから生まれてくるもの。

もちろん純粋に、誰かによく見られたいとかそういう欲求ではなくて、ただほしいから買うみたいな欲求もあるでしょうが、

そもそもそのサービスや商品を知る段階からして関係性を通じたコミュニケーションを経ているわけですから、自分一人しか存在しなかったらやっぱりそれがほしいとは思わないだろうし、わからないな、というのが正直なところです。

近い人ほどあうんの呼吸で言わんとしていることが通じてもいいと思いますが、そもそも言葉の解釈が違っていたらあうんの呼吸どころかコミュニケーション不能ですし、

やっぱり人は自分の解釈で人の話を聞いたり、人の文章を読んだりしてしまうもの。

コピーを書く僕らがこれでは、よろしくないと思うんですけどね。

なかなかここが、伝わらないというか。

昨日、思うところがあって何人かと記事を書いていく目標を決めました。

今月は何本、来月は何本という感じで、目標とする請求書の金額を設定し、5月までにいくら稼ぎましょう、というものです。

この通りに行動すれば副業収入として100万円が手に入ることがわかっており、あとは行動する時間を確保してノルマ通りに書き続けるだけ。

記事のフォーマットはスワイプファイルのようなものを用意した方がいいけれど、僕としては無理ない数字を設定したつもりです(かつての僕なら、倍は書きますので)。

コミュニケーションできていればいいなぁ、と思いつつ、書き続けて変化することを期待したいと思います。

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コメント

  1. より:

    お言葉に甘えて。再び。

    > 他者との関係性の中かから生まれてくる

    実は私は「自分」というものの存在を「それ以外」のものとの相対的な関係性によって認識しようと考えています。「自分の顔や姿は鏡に映すことによってわかる。同様に、人間は鏡としての他者をつうじて自己を知ることができる。」といったのはアメリカの社会学者チャールズクーリーさん。「人が人を人たらしめている」と言ったのは私の大学院の時の指導教官で、『「自分」を「自分」たらしめているのは実は「自分自身」ではなく自分以外の「あなた」なんじゃないか』と考えているのは実は私です。。。私以外の第三者的な「誰か」ではなく二人称の「あなた」であることは結構私の中では重要です。

    似たようなことをジュリアンバジーニさんがTEDで話されているので興味があればどうぞ
    https://www.ted.com/talks/julian_baggini_is_there_a_real_you?language=ja

    • ono takamasa より:

      ありがとうございますー

      「本当の自分とは人の数だけ存在する」

      と考えているのは、実は僕です。

      小学生の頃、宇宙空間から生命体のいない地球を眺めている夢というか、
      想像をしたのですが、

      たまらなく怖くなりました。

      今思うとそれは、そもそも生命体が自分一人というのは
      本質的にありえない世界だからかなぁ、と考えるのですが、

      また同時にそれは、他者との関係性において、
      認識できるものなんだろうな、とも思っています。

      タイとかカンボジアとか、ギリシャとかトルコとか、
      ああ、スイスとかをまわる中で気づいたことは

      誰ひとりとして僕を認識しているけれども、
      同じ僕を認識してはいないだろうな、ということ。

      言葉が通じないから、母国語の会話ではないから、
      いろんな要因はあるでしょうが、

      僕はこの経験から、
      「いわゆる本当の自分」探しには意味がない、
      と思うようになりました。

      なぜなら、自分一人しかこの世に存在しないなら、
      自分とは何だという問いかけもまた、存在しないからです。

      関係性が、自分を生み出す。

      だからひとつでも多くの国、街に行き、
      一人でも多くの人と出会う。

      どれだけ多くの自分と出会えるかは
      僕にとって大切なテーマでもあるのだろうと思います。

      ゆえに僕の解釈では、
      「あなた」を重要とすることに同意です。

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