朝食を食べるつもりはなかったのですが(昨日食べたものでお腹がいっぱいでして・・・)、コーヒーでも飲もうとホテルのレストランへ。
せっかくなのでと中華麺やヨーグルトなどをいただいた後、スタッフさんに「コーヒーのテイクアウトはできますか」と聞くと、できますよ、とのことで、
やっぱり聞いてみるって大切だよな、と思った次第です。
聞き逃したらどうしようとか、聴き取れなかったらどうしようとか考えるあまり、
基本的に僕は自分でかってに解釈してしまう傾向にあったのですが、聞いてみないとわからない、聞いてみてどう判断するかは相手次第ということに気づいてからは、ビビったらゴーではないですが、よく聞くようにしています。
ゲーリー・ハルバートとテッド・ニコラスのASKも同様ですね。
自分で解釈することの大切さはもちろんあるかと思いますが、人との関係性において成立する場所であれば、自分一人で解釈するよりも、相手とのコミュニケーションから解釈することって大切なんだろうな、とあらためて思いました。
部屋に帰ると僕が借りている部屋のドアが開いておりまして、やはりというか中ではハウスキーパーさんが清掃中。
中国語で喋るも僕が中国語を理解しないことに気づき、しどろもどろしておりましたが、僕は身振り手振りでこっちにいるから、掃除をお願いします、と伝えると、
笑顔になって清掃が始まりました。
僕が朝食に出かけたことをどう知ったのか、それが謎なところではありますが、部屋に一人きりではない時間もまたいいものだなぁ、オレはもしかしたら寂しがりなやなのかもしれないなぁ、と思ったり。
先ほど、週刊オノタカマサなるLicense to beatの2つのクラスで更新しているエッセイというかコラムというか、そんな感じのものを投稿しました。
その時に書く内容は、参加する皆さんへのメッセージであったり、自分自身が置かれた状況を表すものだったりします。
現在、法人口座設立をはじめとして、自分でやる仕事、自分でやらなくてもいい仕事、そもそもやらなくていい仕事、という感じで区分けを進めているのですが、
これまで全て自分でやってきたからこそ区分けができるんだろうな、と思えたことには自己満足しつつ、時間を使うべきところで時間を使うようにしないとならないな、と考えるようになったことは、ビーコンのサービスに自己投資してくださるメンバーさんに感謝するとともに、反省もまたしているところであります。
最近思うのは、というか至る所で話しているのはコミュニケーションの成立の難しさでして、
この場合コミュニケーションの成立の難しさというのは、意図していない意味で言葉をとらえられてしまうことを指しているのですが、
どこにもそのような意味で使っていることがうかがえないのにもかかわらず、そういうふうに解釈されてしまう怖さを感じています。
想像するに、言葉そのものよりも感情的な何かがあるからこそ、拡大解釈されているのだろうな、と思いますが、
これは裏返すと僕自身の提供する価値が至らないところもあるからではないか、と思う次第です。
コミュニケーションを相互に成立させるためにこそ、現在行っている業務の棚卸し的なことは必要なことだと考えており、
それを今回は上海で、マスタープラン書き出しとともにやっています。
上海では屋台の焼きそば屋さんが姿を消し、物価も上昇して日本人の姿が少なくなったような気がするなど、7年前から今日まで、随分変化していると感じますが、
1年に一度の振り返りは変わらずやっていく意味を感じつつ、今日はこのへんで。
コメント
お楽しみ様です。
山内と申します。実はコメントは2回目です。
突然ですが質問をさせてください。
以前、小野さんのブログにありましたように脳にプラスのイメージをもたらすように気をつけています。
今、考えているのは「どうせ」という言葉についてです。
この後に来る言葉はマイナスイメージなものばかりに思います。
そこで「せっかく」という言葉に置き換えてみたところ、
プラスのイメージの言葉が出てきます。
しかし、「どうせ」を使う人が多いので「せっかく」は間違ってるのかと疑問に思いました。
小野さんはどう思われますか?
コメントありがとうございますー
脳にとって否定的な言葉であれば何であれ、
僕は極力使わないようにしています。
どうせもせっかくも
その次に来る言葉次第かと思いますが、
多くの人が使っているからといって、
その言葉を使わなければならない、
ということはないかと思います。
言葉通りの人に、人はなる。
一緒にいる人のように、人はなる、と同様、
これは僕にとって大切な、真実です。