だから、自分ができることにフォーカスなのか。

ビート・ザ・コントロール
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芦屋3日目は雨模様でして、芦屋神社までのランニングは様子見です。代わりに、股関節の可動域を拡げるためのPrehab(プリハブのような感じで呼ぶそうです)と思われるエクササイズを行い、その後にダイナミックストレッチ。

吐いて吸ってを意識しての呼吸も行いまして、雨模様なのに今朝からいい感じです。芦屋パワーですかね。

先程まで写経を行っており、今書いているテーマは『Wake Up, Now!』。木坂さんが2014年に書いたセールスレターです。

ひとりの人物が書いたセールスレターを、書かれた年とともに写経し続けていくというのは、面白い気づきをもたらしてくれます。

それは、ああ、木坂さん自身もエラい変化しているんだな、アップデートしているんだな、ということです。

たぶん今なら、こうは書かないんじゃないかな、と感じさせてくれるのは、2018年に参加しているセミナーの内容を聞いているからなんだと思います。

自分をアップデートさせ続ける。彼はこのセールスレターで

「毎日が同じことの繰り返しのルーティーン人生か、毎日新しいことにチャレンジするクリエイティブ人生」

に分かれる、二極化が進んでいく、今後その流れが加速していく、さらにその二極が離れていく、と話していますが、おお、身をもって示しているな、と感じさせてくれました。

さて、このセールスレター。

冒頭で日本の高級ホテルにおけるうどんを食べにきたフランス人バックパッカーっぽいカップルと、お店の店員とのやり取りが描かれています。

この描写を写経している時に、だから自分のできることにフォーカスなのか、と雷に打たれた感覚になりました。

上海の話を少し。

上海でひとりグルメを楽しむとき、そのあたりにあるお店へ行って、まぜそば的なものをよく注文します。なかでも「葱油拌面」だったかな、このまぜそばがシンプルでとても好きでして、具は焦がしネギとかだけなんですけど、あの素朴で麺だけ、というのが好きなんです。

で、僕が中国語でできるものは、「〜に行きたい」「いる」「いらない」程度なので、とても「葱油拌面ください」とは言えません。そもそもこれを書いている時点で、これってなんて読むんだ、というレベルです。

指差しで注文するのですが、このとき問題が一つ生じます。それは、壁にかけられたメニューが指から離れていて、「葱油拌面」を指さしているのか、それともその隣の「紅焼牛肉湯面」を指さしているのか、店員からしたら見分けがつかないことです。

すると店員は、言ってきます。

「XXXXX??」

と。

僕は中国語を聴き取ることができないので、「XXXXX??」と聴こえるわけです。日本語や英語を話せる人は話してくれますが、外国人向けではないいわゆるローカルなお店では、中国語しかでてきません。まあ、当たり前ですよね。

実はここに、僕が上海やバンコクに行って、妙に安心してしまう理由があります。

なぜなら、その時彼らは、自分ができることだけをやっているからです。

日本語できなくてスミマセンとか英語できなくてスミマセンとか、そんな雰囲気が一切ない。

翻って僕は自分を振り返ってみた時、外国人が話しかけてきて聴き取りができなかったら英語で、

I am sorry. I am not good at listening your voice. Ear deaf 云々

とか返すわけですが、「ゴメンナサイ」と言っている自分に愕然します。

いやいや、ゴメンナサイよりも、上海の麺屋さんのように、その時できることをやればいいじゃないかと。

聴こえないものはどんなに集中しても、聴こえることはありません。

だったら、自分のできることに焦点を当てて、目の前の相手が困っていることを解決するようにする。

その場においてできないことはできないのだから、できないことを詫びる必要もないし、できるように振る舞う必要もない。

そもそもできないことをその場でできるようになんて、ならないのだから。

気持ちの上では美しいのかもしれないけれど、できないことを謝るというのは自分に矢印が向いている証拠だとも思うのです。

できない僕を許してね。でも、相手が望んでいるのは許すことじゃなくて課題解決だよね、と悶々です。

それよりは目の前の人に矢印を向けて、その人が満足するように自分が今できることをやる。

その後、できるようになりたいのであれば、トレーニングをする。

できることに目を向けるって大切だと僕は思うのですが、どう思います??

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