今日は名護から北に上って美ら海水族館へ。
おそらく僕一人なら、まず行かないであろう水族館へ行ってきたわけなんですけど、入ってみるとこれがまたジンベイザメとか3匹もおりまして、なかなかの絶景なわけです。
誰と一緒にいるかは大事だといいますが、こと自分の経験から外に飛び出るなら、誰と一緒にいてもいいのかもしれません。その人についていけば「え、こんなところに普通行かないだろう」という経験ができますし、その経験が自分という器を広げていくと考えていますので。
美ら海水族館のあとは、万座毛へ。
イメージとしては網走のオホーツク海に面した断崖絶壁を彷彿させるような場所でして、オホーツク海が東シナ海に変わり、北国が南国へ変わった、ある意味真逆の土地で同じ経験をしたというか、そんな感じ。
風がエライ強いことも同じでしたね、そういえば。
美ら海水族館もそうですが、なぜ万座毛という僕一人ならまず行かない場所に行ったのかというと、外国人の方々に人気の場所を探してみたら、そこだったからです。
僕が海外を歩くときには多分現地の方が不思議に思うように、海外の方が日本を歩くときは僕ら日本人にとっても不思議な事ってあると思います。
え、そんな場所に行くの?なんてことも結構ありまして(逆の立場なら、僕もそう思われているんでしょうけど・・・中国なら、昔話題になったニーハオトイレ、とかですね)、記念撮影の場所が日本人と同じところもあればそうでないところもある。自動販売機の前、とか。
これは確かに、日本ほど自動販売機が充実した国って見たことないですし、あれを市場調査に使ってオススメを勧めてくるなんて、他の国ならやらないんじゃないかってくらい、日本はある意味すごい特殊な方向に進んでいると思いますから、記念撮影するのはわかる。最近はタイでも自動販売機を見かけるようになりましたが、だいたい日本で昔使われていた自動販売機の旧型機です。旧国鉄の車両もタイで使われていたような、そういえば。
ほかには、日本人が庭でバーベキューをしているシーンを動画で撮影していたり、ですね。トルコとかタイ、カンボジアで僕も似たようなことをしていた気もするので、海外と国内の行動というのは違うものだなぁ、と。
僕がなんでこんなことをやっているかというと、実は理由はないのですが・・・強いて一つ理由をつけるとしたら、新しい体験をして自分という器を広げ、自分を客観視する高度を高めたいからかなぁ、と思います。より高い位置から鳥瞰して全体を眺められるようになるというか。
自分を主観的に見ることが普通である人は、おそらくなんですけど、自分が発する言葉や思考する言葉の「我」、「エゴ」に気づかない。自分ではそういう認識がないんだけれども、自分で自分を評価する言葉を使っているから、人によっては高飛車感を感じてしまう。
不要なことは言わないほうがいい、と僕は考えているのですが、その不要な言葉の種類に「自分を評価する言葉」があると思います。形容詞とか、ですね。
自分一人で行動することも必要ですが、そればかりだと自分という殻に閉じこもるようなものなので、誰かと一緒に行動するといい。
その誰かを観察することで、また新しい経験をする自分を眺めることで、客観的に見る習慣が身につく。
すると、自分の言葉をも客観的に眺められるようになり、それは他者からすると聞き心地のいい言葉になる。
言葉の選び方は客観性を持ってこそできるものかもしれませんね。
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