島田さんの「ワイルドサイドを歩こうよ」ブログで、「発想は移動距離に比例する」と高城さんが話されていたことを聞き、その後アパホテルのアメニティに印字された言葉でも「発想は移動距離に比例する」と見ました。
そういえばそうかもな、と思い当たるのが、セールスライティングスタートアップガイド第1章。これを書いたのは2014年12月の上海でしたし、他にもLicense to beatの動画撮影やメール配信は、沖縄とバンコク、そして上海などから行っていましたから、確かに発送は移動距離に比例するのかもな、と。
ここ3日間は実家で過ごしているのですが、朝から晩まで机に向かっているとブログを書き出すのにものっそりのっそりですし、書く内容はあるものの外に出ないから写真がない、ということで、なんかブログを更新するのも普段通りにはいかないのです。
「発想は移動距離に比例する」
これの是非は僕の感覚からすると是でありますが、個人的には言葉の通じない場所に行くと、より顕著になる感があります。
言葉が世界をつくりだすこともそうだろうし、逆に言葉がなくたって世界は在る。言葉は大切だけれども、それほど大切ではなかったりもする。
そんなふうに考える僕は、言葉が通じない世界での経験をとても気に入っていて、なぜなら感じたこと、感じる雰囲気がそれそのものだから。
言葉が通じる世界においては、余計なことを言ってしまうもの。たとえば、喉が渇いた時に烏龍茶を仲の良い友人からごちそうになった時、「まぁ、これでガマンしといてやるかな」とかウケ狙いで話したり、妹が職場で活躍していると聞くと、「まぁ、オレの妹だからね」とか鼻高々で話したり。
時と場合によってはこれらの言葉が場を和ませたりすることもありますが、一方で場の雰囲気を損ねてしまうことも在る。なんというか、アソビのない言葉はどうかと思いますが、文脈が共有されていない同士の会話である場合、仲がいい間柄であってもこじれてしまうこともある。状況により、人間の感情の状態により、どちらにでも解釈されてしまうのが、言葉の面白さであり、怖いなぁ、と思うところでもあるのです。
言葉なら、なんとでも言えてしまうといいますが、これはまさにそうだなぁ、と。
しかし言葉が通じない世界の場合、相手が浮かべる表情や身振り手振りなどの仕草、発せられる雰囲気がある意味すべてです。
うまくできているなと思うのは、言葉が通じなくても表情と仕草、雰囲気でコミュニケーションが成立すること。
これを意思疎通と言ってはわかりませんが、大方のことはわかる。というか、感じることができる。そうでなかったら、僕がロドス島へ向かう船でアルバニア人のおじいちゃんと船上で火をつける方法とかギリシャ語の練習とか、サフランボルで少年たちにサッカーをしようと誘われ、チャイハネでトルコ式チャイを飲みながら、エルトゥールル号事件とイラン・イラク戦争を学ぶなんてこともなかったでしょうから(エルトゥールル号事件とイラン・イラク戦争は、確か碑文と筆談で教えてもらったので、言葉も使っていますが)。
なんというか、「考えても仕方がない」状態になるんですよね。そうすると、委ねようというふうになる。
こうなると我が外れた状態になるから、こう書くのは照れますが「心と心のキャッチボール」が成立するようになる。イノックさんの言葉を借りると、「魂の共鳴」。まぁこれは、誰とでもそうなるわけではないですけど。
完全に言葉でのコミュニケーションをしていない、というわけはないですが、
タイやカンボジア、ギリシャやトルコ、オーストリアやスイス、ドイツやベルギーで僕が「ココには行かないほうがいい」と言われる場所でも安全に過ごすことができたのは、感覚に委ねることができていたからだと思うし、だからこそ本当に危ないと感じるところには行かなかったんだと思います。感度が高くなっていた、というかね。
言葉をほうっておくことができると、経験や常識からくる「余計なこと」を考えないようになるし、話さないようになる。
僕は常々、「人は思考する言葉、発せられる言葉通りの人になる」と考えていて、余計なことを言えば言うほど、ウソっぽい人間になっていくんだと感じています。自信過剰というか、考え過ぎというか、内容が伴わないというか、外見だけ、というか。
「発想は移動距離に比例する」
この言葉に僕の解釈を加えるとすると、「発想は、言葉の通じない世界における移動距離に比例する」、のように言い換えることができます。
もちろん、これだけではないでしょうし、日本国内であっても出雲大社に行ったり沖縄に行ったり萩に行ったり網走に行ったり、大神神社に行ったり智頭に行ったりタルマーリーに行ったりすることで、アイデアが湧いてきますし感覚が広がっていくのを感じますから、単純に「発想は移動距離に比例する」にもそのとおりだと考えています。
インプットなんですよね。僕の解釈では、「発想は移動距離に比例する」というのは。
インプットの土壌をつくる、というか。
License to beatの自分という器クラスでやるのは、これ、ということで。
インプットあってのアウトプット。インプットの土壌あっての、アウトプット。
循環させるイメージでいきましょう。
P.S.
マジメな話、セールスコピーのアイデアは移動距離に比例すると思いますし、ライティングというアウトプットはインプットありきです。人生経験が、本当にモノを言うのです。そして人生経験を豊かにする条件のひとつが、人への興味なんだと思いますよ。
P.P.S.
明日から、バンコク。神奈川に戻ってくるのは、月末かな・・・。
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