平成のビッグニュースTOP5(ただし私的な)。第4位。

ひとりごと
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昨日のブログでは第5位として「上海で決めたバックパッカーデビュー」をお届けしましたが、いかがでしたか?

28歳でのバックパッカーというのは、旅先で「遅いですね」と言われ、そういうものかと感じましたが、、、まあしかし、いくつになってもチャレンジできる証と見てくださると。

今日は第4位について書きますね。「選挙結果と母の病気で憤慨したリクルート入社」です。

第4位:選挙結果と母の病気で憤慨したリクルート入社

かつての僕は「内閣総理大臣になる」と密かに思っていました。いや、割と人に公言していたかもしれません。

ある時、「小野くんて口だけだよね」とサトケンという男に言われまして(塾生から諭されました)、穴があったら入りたい気持ちになりました。

父が議会議員選挙に出る前から政治に何となく興味がありまして、大学生による薬害エイズの何だったかな、、、に誘われて、利権に憤慨した思い出もあります。

今思うと青臭いわけですが、実は今でも青臭さは変わらないと思っているんですけど。。。

松下政経塾を志望したけれども合格せず、、、ですが今考えると、合格しなくて当然でした。

理想を語るだけで、僕の背後に道はできていなかったから。

理想を語るなら背中で根拠を語れ。

最近でこそ腑に落ちてきたこの考えは、当時の僕にはまだ遠すぎたんだなぁ、と思います。

20歳の頃に父が議会議員選挙に立候補し、当選させてもらいました。

目に見えるところだけでも、道路を補修したり外灯を付け替えたりと、きちんと仕事をしているなぁと感じていたので、2期目の選挙はより評価されるといいなぁ、と思っていたところ、1期目よりも得票数はダウン。

僕の青臭さが真骨頂になりまして、「住民の皆さんは、一体どこを見ていらっしゃるのでしょうか」と清らかにいえばこんな感じですが、選挙結果を見て憤慨していたわけです。

結果を出す人に票が入らず(もちろん私見です)、結果を出さなくても票が入る人はいる(私見です)。

なるほど、選挙というのは、政治の結果とはことなるのだな、と考えまして、怒りと闘志が湧いてきたことを覚えています。

選挙を酒のつまみにする方々もいらっしゃいましたし、なんというか、僕にはできない世界だな、と思いました。

父が選挙に出れば美容院のお客さんは減少していきます。

まあコレは、父の在り方が招いた現象なのでしょうが、母にしてみたら今まで良くしてくれていたお客さんが来なくなり、選挙って嫌よねーとなる。

他の陣営についたらそれは来づらくもなるでしょうが、代わりに怪文書が出回るようになりましたからね、、、選挙とは確かに、家族を巻き込んだものになりました。

2期目の選挙期間前後から母の体調が思わしくなく、基本的に元気な母ではありましたが、お客さん待ちの時間でもよく横になっているのを見かけました。

看護師をやっている母の妹さんが心配し、選挙が終わったら自身が勤めている大崎のクリニックに行って検査するといいよ、と言ってくれました。

選挙を終え、打ち上げが終わり、応援してくれた皆さんに御礼を伝えると、僕は母と一緒にクリニックへ。

風邪もひかずに元気な母は、はた目にもわかるほどに弱々しかったけれど、コレはきっと何かの間違いで、すぐに元気になると思っていました。

しかし、検査結果が出て、ベッドで休む母の代わりに叔母が僕に教えてくれたのは、結構な病名でした。

僕の青臭さはまた全開になり、選挙に出た父のことを責めることはなく、こんなにストレスを与えた世の中にコノヤロー、という状態でした。ええ、ホントに、アオカッたんです。

一方、母の病気の原因がストレスだというお医者さんの意見を信じるならば、「オレが一番ストレス与えているじゃん」と、就職もしないで「内閣総理大臣になる」とか「弁護士になる」とか言っていた自分を反省しまして、生まれて初めての就職活動を開始しました。

父の3期目の選挙があるならばと、選挙で票を得る学びになればと広告関係の仕事をいくつか志望し、引っかかってくれたのはリクルートの学びディビジョンカンパニー(当時です)。

感覚的な僕の思考と行動では選挙を狙って勝つことは難しいと認め、論理的な思考を身につけたい、そして次の選挙では父をきっちり勝たせたいと思います。

こう入社の時に挨拶させてもらい、早速その日に声をかけてくれたのが土門さんという先輩でした。

今でいうところのジャケパンスタイルの先輩は、コレまでにあったことのない人でして、何かにつけては「今のオマエには頑張れとしか言えないな」と言われ、突き放されていました(要は、ほかに掛ける言葉がないほど、僕は土門さんに自分が抱えている課題を伝えることができなかった、ということです)。

まあとにかくエラそうな先輩だったのですが、直行直帰が多く、とある上司からは目をつけられていたにもかかわらず、それと営業何の関係があるんだ?と言わんばかりに自分のスタイルを貫き、名刺には「プランナー」と記され、ここぞのプレゼンテーションでは抜群のリサーチ力を駆使して、ある専門学校へのプレゼンでは億単位の広告予算を獲得していました(前年比10倍以上の予算を獲得だったとか)。

営業中なのに小田原の「万葉の湯」に行き、大ナマを2杯飲む土門さんに僕は恐る恐る、

「土門さん、僕たちは今営業中ですよね?ビール飲んでいていいのでしょうか?」

「小野、オレたちが営業しているのはわくわくライブだろ?オレたちがわくわくしないで高校生をワクワクさせられるのか?」

まあ口が立つ先輩ではありますが、当を得ているんですよね、いうことやること。

この先輩からダメ出しされるたびに、語彙を増やさなくては、とか、フレームワークを身に着けなければ、とか考えまして、行きと帰りの電車で違う本を毎日読んでいました。

200冊程度は読んでいたと思います。

広告とは何か。コミュニケーションとは何か。言葉にすることができない僕にため息をつきながら、「今のオマエには頑張れとしか言えないな」と言いつつも、付き合ってくれたおかげで、僕でもプレゼンテーションが論理的になり、前年比を上回る広告予算を預けてくださる学校が出てきました。

リクルートを辞め、父の3期目の選挙も当選させてもらい、京都に引っ越したあとも事あるごとに土門さんに呼ばれ、、、ある時は名古屋で土門さんが仮眠中に企画書を書けと指導されるなど、やれやれ、、、ということも経験しましたが、

ブライダルの事業がうまくいきはじめた頃、大阪のマルビルで食事をした際に、土門さんが担当する沖縄の専門学校さんの、プロモーションDVD作成を依頼された時は、ちょっとシビレました。

「コミュニケーションで生きる者同士」

という言葉が、うれしかったですね。

今僕は、セールスライティングというスキルを身に着けてセールスレターを書いたりプロモーションをしたりしていますが、そもそものコンセプト設計やコミュニケーション設計、セールスライン設計などですね、

これらを身に着けたのは選挙があったからであり、リクルートで広告企画営業をしていたからであり、土門さんとの出会いがあったから、だと考えています。

そういう意味で、仕事のスキルの土台は直接的には、18年前になるのかな、2000年から携わっていた広告にあります。

キッカケはともかく、わからないですね、人生というものは。

明日は、第3位について書きますね。

コメント

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