受注会での出来事は脳に焼き付いておりまして、例えば今日は革靴を履いて外出したのに靴ずれをしなかったとか(今まで革靴を購入すると、必ず初日は靴ずれしていたのです)、仮縫いのスーツをまとったらその軽やかな着心地に興奮したとか、新たな生地を目の前にして「悩む楽しみ」を味わい始めたとか、まぁいろいろあります。
しかし今日のところは受注会後に行ったポールダンスの話。
細やかな話は省略しますが、前回同様に今回もポールダンスを観に行きました。
厳密に言うとポールダンスを観に行くというよりは、お酒を飲みに行く感じだと思いますが、前回同様のポールダンスだったはずなのに、この日のポールダンスはちょっとスゴいんじゃない、って感じでした。
そのポールダンスを躍る女性と話をしたのですが、スクワットだか何かで100キロを持ち上げるとか。
踊りを観る前は単に100キロを持ち上げる女性にしか見えなかったのですが、ポールダンスを踊りだすとその雰囲気は一変してしまいまして、
ポールダンスって観ようによっては扇情的なダンスだと思いますけれども、それはタイでゴーゴーとかに行っているからこその感想だったかもしれないと反省した次第です。
この日に見たポールダンスはもはや芸術なのではないか、と思えるような空気をまとっておりまして、その女性が躍るときだけは空気が緊張するんですよね。
だからかな、惹きつけられる。
100キロを持ち上げるほどですから、女性にしては大きめの身体なんですけども、その身体がポールダンスの上部で静止したり、腕だけで回転したり、足だけで回転したりと、
そんな動きって普通できませんよね、って感じでした。
踊った後に話す機会があったのですが、とりあえず手を見させてもらうと素振りをした後でできるようなマメがあり、ポールと身体の接点である腕にはやはりマメじゃないけれども、固くなっている部分が。
「自分ではそうは思わないかもしれないけれど、誰よりも練習しているんじゃないですか?」
と聞くと、少し恥ずかしそうに微笑みながら、そうです、と。
その昔、上海の、いわゆるKTVでナンバーワンだった女性が、誰よりも早く出勤して、一日にひとつ日本語の歌をカラオケで練習して覚えていた、というエピソードを思い出しました。
なんというか、人を惹きつけるような雰囲気というのは、大体においてそのウラ側に量が眠っているように思います。
これはポールダンスでもKTVでも、コピーライティングでもそう。
そしてたぶん、オーダースーツのフィッターやオーダーシューズの職人も。
量の裏付けがない人で、人を惹きつけるような雰囲気を漂わせる人って僕は知らない。
なんかこのようなテーマで以前にも書いたような気もしますが、自分で信じ込んでいる常識のようなものを飛び越えること無く、何者かになろうとするというか、一流になろうとするというか、そういう雰囲気をまとうようになるというか、
そういうことってまずないと僕は思います。
そこまでやるの?という他者からの評価なくして、僕は何者にもなれるはずがないと思っているのですが、
それはこの日のポールダンスを躍る女性と話しても、ああ、やっぱりそうだよな、と思った次第。
なかなかこれは言いづらい話ではあるのですが、もっと自分を追い込んでいかないとね。
もちろん、僕自身も。
コメント
一つコメントです。小野くんブログでよく「量が大事」的キーワードで出てきますが、異論反論ございませんが、何か説明が足りないような。そのせいで核心を伝えきれていないような。そんな気が。極端な例ですが、同じ腕立て100回でも、ほーんのちょこーっと腕を曲げてパパパパーっとやったただけの100回と、深ーくゆっくーり曲げた100回では、時間も労力も成果も違いますよね。量より質だ、みたいな王道的なことを言いたいわけではなく。何をどのようにどれだけどのくらい、目的、スピード、時間、プロセスの上にどのくらいの量、というような、量の上に、、と逆でもいいですが、小野くんも多分そうだと思いますし、ポールダンサーもそうだと思いますが、いくらたくさんでも雑に適当にやってたら何万回練習しようが何しようが、あまり成果は大きくないような。私はどちらかというと亀タイプでゆっくりで一回の効果は少なくてもじっくり一つ一つで時間がかかっても継続していく、最初は遅くとも慣れてくればスピードも上がるだろう(結果単位時間当たりのこなせる量も増えるだろう)、という人生スタイルで35万時間生きてきてます。また理系的考え方ですが、「量」というとき、「総量」か「単位時間当たりの量(速度)」と(少なくとも)二つ見方があり、また客観的比較するには「量の単位」も大事ですが、主観的に自分の作業を比較するときには「うまく行ったときとうまくいかなかったときの感覚を身体で覚えておく」のは結構大事かと。今年の夏あたりか何かしょーもない事件で逮捕されたというニュースを見ましたが、当時お世話になった予備校の塾長の言葉で「継続は力なり」という言葉が人生の座右の名的になってます。時に追い込むのもいいですが全体から長期的に見てみるとバスケットでも空手でも人生でもそうですがリズムって結構大事だと思ってます。精神的にも肉体的にも「健康第一」で。元気があれば何でもできる、元気がなければ何もできない、です。どうぞご自愛を。
ありがとうございますー
健康第一は課題だなぁ、と思っているので、感謝です。
マーボーこそ、健康第一で。
量の話はまさにそうなんです。
が、
真意はいずれ書くかもしれませんし、すでに書いてあるかもしれませんし、
まぁ、会った時にでも。
スイスは、トルコ経由になると思いますがいずれ行きますので、その時に!
書いてて思ったのですが、科学の世界で「質」「量」というとちょっと違った見方が増えてきます。一つ目「定量性」と「定性性」。定量的というのは1gとか10kmとか具体的な物理量の単位を用いてきっちり計測できる性質のこと、定性的というのは、増加するとか振幅があるとか、量の変化傾向を示せること。計測機器が発展した現代ではとかく定量性を重視しがちですが、どちらも物事の理解には大事です。もう一つは、多次元性(多変量性)と非線形性。大抵の現象は複数のものの変化の影響をうけます。たとえば腕立て伏せでも、筋肉増大効果=深さx体重x腕立て伏せ回数、みたいに(この数式が正しいとか間違っているとかいう意味ではなく)。かけ算とは限らず、足し算があったり(線形結合)、各量の効果の度合いを調整するのに係数がくっついたりと。何かの量に比例する関係のものは比較的予測(分析)しやすいですが、xの二乗ですとか、冪乗で結果が変わってくるような(非線形)現象は予測が難しくなります。単に漠然と「量」という見方も自分の中の理解としてはいいかもですが、他人と価値観を共有するとき(自分の意見を主張するときなど)はいろいろな「量」の見方(表現)の方法を提示できるといいですね(同じものでも角度、時間、場所、観測方法、観測状況を変えると見方が変わったり、新たな発見があったりするものですし)。ご参考までに。
ありがとうございますー
今、「木坂さん」という方の講座で学んでいるのですが、
それはまさにマーボーくんがいうところの科学を学ばねばならない、
と思ったことが理由の一つにあります。
個人的な体験を一般化するというか。
だから科学とは当時は考えていなかったけれど、
どちらかと言うとリベラルアーツとか、
そっちを学ぼうと思っておりまして、今に至ります。
僕がやってきたことは
個人的なものにすぎない一面もありますが、
一般化できるものも在ると考えています。
それを言語化して、再現可能にしていくこと。
今僕が運営している講座は一般化できるものの一部ですが、
それを増やしていくためにも、
「量」の見方、表現の方法を提示できるようになりたい、と思います。
ありがとうございますー
PS
二年前の人間ドックで左脳の一部が欠けているらしいことに生まれて始めて知りました。。。ここ一年くらい一週間に一度くらいは鼻血が出るので(すぐ止まるのですが)日本に帰ってもいっかい人間ドック受ける予定です。トルコ通るときは撃ち落とされないように(-人-)気をつけようがないでしょうけども。。。
PS2
もしトルコに特段の予定がないのであれば、まだドイツ経由とかたしかスイス直行便もあったと思うのでその方が安全かもしれません。念のため。
スイス行くときはイタリアにも行きたいので、飛行機で入って電車で移動するなど、考えてみますねー
PS3
連続投稿すいません。もし興味本位でシリア近くに行ってみよう、みたいな考えでトルコ行くつもりだとしたら絶対やめておいてください。万が一は起きうるので、家族、しいては日本政府に迷惑をかける自体も起きかねないことを考えておいてください。一応念のためです。
シリア近くに行ってみようという考えはないので、ご安心をー
13年前にトルコのカッパドキアで出会った日本の方がシリアに行きましたが、
当時はまだ大丈夫でしたけれども、国境を超えるのには手間がかかったようですし、
イラクの件がありましたから、割と危険な場所という印象でした。
ありがとうございます!
身体の声に耳を傾けよう、
と言うのは脳神経外科医であるクライアントさんの言葉です。
人間ドック、僕はやったことないのですが、ちゃんと診てみてください。
僕も人間ドックやってこようー