脱情報発信。脱日刊。

情報発信と日刊を閉じました。

 

僕の認識では情報発信とは、外の方々に向けてのモノ、マナーとしてのファッション、装いを意味しています。

 

書くには書くのですが、当面は情報発信以外、内向きというか、内観を書いていきます。

ノイズを除去し、そのままを表現するというか、そんな感じです。

 

僕はどこへ向かっていくのか、何をやりたくなくて、やりたくないことをやらないようにし、どんな日常を過ごすのか、それはなぜなのか。

 

情報発信と日刊を閉じる理由は、やりたくないに身体が反応したからで、まあこれは僕が勝手にはじめたので勝手に閉じさせてくださいと、しかし応援してくださる方々に感謝の気持ちと、情報発信ではないけれど、何らかの文章は書きますよ、という気持ちを伝えておきたいと思います。

 

引き算の卓越

 

情報発信がブームのような空気を感じ、プロモーション視点ではそれはそうだと考えるので、何らかの自分というものを、世の中に伝えていく必要がある人にとっては、良しだと思います。

 

しかし、多くの場合、私見として僕が感じる限りにおいて、情報発信という装いは読者に何らかの役に立つ情報を発信するものです。

 

ところが情報発信された言葉は、コピーアンドペーストされた、あるいは内容は同じで装いを変えたものが目につき、決してそんなつもりはなかったけれど、僕がやっていることも同じなんじゃないか、そこに僕の経験や実存が存在しないんじゃないか、と感じるようになりました。

 

薄っぺらい情報を跋扈させ、世界をノイズで満たしている。

 

振り返ってみると僕自身もそんなノイズをつくりだす一員になっていると感じるようになりました。

 

いったい、実存のない、どこかで見聞きした情報を、さも自分ぽく装うことに、なんの必然性があるのだろう。

 

人の期待に応えたいという、耳心地の良い言葉を並べたところで、お前のやっていることは自己承認されたいだけじゃないのか。

 

そういうのを人は、エゴと言うんだよ。

 

期待に応えることが習慣化されている僕の思考を変えるには、期待に応えるよりも先に、期待に応えることがやりたいことだという習慣化された思考プログラムに従うよりも先に、やりたくないことを自分に問うことです。

 

そしてそのやりたくないことを、やらないことです。

 

どんな情報であっても、その情報は何らかの人を引きつけます。

 

だからどんな情報であっても、人を引きつける以上その責任が生じるのです。

 

じゃあ実存のない情報を発信し、お前はどう責任を取るんだ?

 

と突きつけられた時、僕は突き進むことはやりたくない、と反応しました。

 

お金を稼ぐためであったとしても、実存のない言葉を発信することはやりたくない。

 

だって、僕の実存なく引きつけた人々の人生を背負うことなど、僕はできるはずがないじゃないか。

 

僕にとってお金を稼ぐということは、人の人生に責任を負うことと同じなのです。

 

お金の循環が少ないと言うことは、責任が少ないということです。

 

お金の循環が多いと言うことは、責任が多いということです。

 

そして人々の声に耳を澄ませて歩んでいく以上、お金の循環は増えていき、責任が増えます。

 

大いなる力には大いなる責任が伴うとは『スパイダーマン』で叔父さんが死の間際に発する言葉ですが、

 

僕にとっての大いなる力、卓越したものでなければ、とても責任を多く引き受けることなどできない。

 

だから僕は僕の卓越を発揮する。

 

だから僕の向かう先をまず明らかにする。

 

だから同じ方向を見ている人が共鳴する。

 

同じ方向を向いて歩む人と僕の人生を、共に幸せなものにするために、僕は商品を開発し、コンセプトを開発し、ビジネスをつくる。

 

自分自身の原点と対話し、引き算の思考でやるべきことをやる。

 

脱情報発信、脱日刊を決めました。

 

やりたくないことを突き詰めていき、残ったものを大切にすることからre-startする。

 

同じ世界をみるご縁があれば、よろしくお付き合いください。