「小野さん、執着の反対はなんだか知っていますか?」
ちなみに僕は常日頃、中庸であることを心がけています。中庸とは、Googleで調べると、「極端な行き方をせず穏当なこと。片寄らず中正なこと。」とでます。中庸。バランスの取れた状態、とも言えるのかもしれません。
感情の波が立たず、両極に行かず、思い込みや執着から遠い状態。うーん、、、遠いというよりも、近いんだけれども、バランスが取れている状態なのかな。
自分自身のことを振り返ってみると、追い風に乗っているときというのは、中庸であることが一つの条件のように思います。
セールスライティングを学んでいるときも、そうでした。自分が向かう方向を定め、そこに向かってただ進んでいく。
周囲からの声が最初は気になりましたから、シャットアウトさせていただきまして、ただ向かうべき方向に動いていくだけ。
このとき、人からよく見られたいとか、こんないいことがあるかもしれないとか、そういう打算的な考えがあるとうまくいかないことを感じていたので、いわゆる夢中になってできるよう、カラダとアタマと環境を整えていたように思います。
ああ、コレはくれぐれも僕の場合です。人によってはこうでないほうがいい人もいると思うので。
人それぞれですからね。だからこそ自分を知るって大切なわけで。
で、中庸であるというのは言うは易く行うは難しだと感じているわけですが、例えば執着していることってわからなかったりします。
自分としては、例えば何が食べたいとか何がほしいとか、え、こういう気持ちも執着なのか、という感じで気づこうにも気づけない。
今思いついた例がわかりやすいかどうかはともかく、例えば先日お土産に、蓬莱のシュウマイを伊丹空港で購入しようとしたわけです。
豚まんを買う予定はなかったのですが、両親が食べるかな、というのと、シュウマイとセットで売っていて注文しやすいな、というのがありまして、結局セットで購入して持って返りました。
例えばこのとき、「シュウマイだけ買ったら、豪快さが足りない男だ、とか思われたら嫌だなぁ、、、」という理由でセットを買ったら、私見ではありますが、執着になります。
執着という言葉を、「固執し、囚われること」と解釈すると、語感もそうですが、あまりよろしくない。
では自分の考え、判断、状態が執着なのかをどう見分ければいいのか、となるわけです。
そこで昨日「ほう」と膝を打った言葉が登場しまして、それが、「必要」。
「小野さん、執着の反対は、必要です」
と聞いたわけですが、コレには眼前が明るくなり、大空を飛ぶ鷹のように、視野がパーッと開けた感があります。
なるほど、執着の反対は必要。
時と場合によって必要は変わることもありますから、あーコレって、なぜ服装にコードがあるのかと同じだな、と思います。
とはいえ、コードはコードでも、適切さはありまして、やりすぎはよろしくない。
過ぎたるは及ばざるが如しですね。中庸です。
それは必要なのか?
中庸である問いかけになるかもしれませんね。
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