QUESTセールスライティングクラスの講座後、新大阪を出て梅田へ。
ミラノでサルトを営む河合さんが来日中で、この日は大阪でトランクショーを開催。
東京での開催期間中はタイにいたため、なら大阪ではどうかということで、夜の時間を提案してくださり、仮縫いのジャケットと対面することができました。
会場では河合さんと僕の二人だけ。
阪急梅田駅やJR大阪駅を眺めることのできる会場で、河合さんに「こちらへどうぞ」と言われるままに窓際へ行くと、ちょうど阪急のあの色に染まった電車が3本、梅田駅から同時に出てきてなんと贅沢な空間だと息を呑む。
梅田とか大阪駅を、茶屋町方面から眺めたことはなかったですし、こちらにホテルが有るなど知らなかったですが、やはり街は歩いてみるものだと思います。
ジャケット用のハンガーにかけられたジャケットの袖に手を通し、受注会時はサンプル生地だったツイードの、少しチクっとする肌触りの心地よさに背筋が伸びる気分です。
着込むほどに味が出る、着込むほどに肌に馴染んでいくさまが目に浮かぶようでして、河合さんが着ていたモヘアのジャケットのようになるのかなと想像すると、完成がますます楽しみになりました。
鏡を前にして河合さんが一言、
「補聴器はふだん、どこに入れていますか?」
このときは胸ポケットに入れていたのですが、ああ、そうですね、胸ポケットかズボンのポケットからもしれません、と回答。
もしやと気になったので、「ところでなぜ、補聴器を入れる場所を聞かれたのですか?」と質問。
すると、
「入れる場所により、調整しなければラインが美しく出ないのですよ」
だったかな、こんなことを言われていました。
そういうことならと、そもそもふだんは補聴器をつけず、必要な時につける程度ですからと伝え、補聴器を胸ポケットから抜いて、再び指先で仮縫いのジャケットを調整していく。
一通り調整した後は、
「あちらまで歩いていき、戻ってきてもらえますか?」
ということで、仮縫いをまとったまま歩く。
戻ってくるときは河合さんの方へと歩くわけですが、腕などの可動域にあっているかどうかを見ているっぽい。
腕の部分がオーケーとなると、仮縫いから両腕の箇所を取り外し(写真がその状態です)、今度はアームホールだったかな、その周辺の調整へと移っていく。
細やかで繊細。静寂という言葉がフィットする、河合さんの佇まいです。
仮縫いを調整後、シワの美学的な話になりまして、河合さんがこの日着ていたモヘアのジャケットは、一度もアイロンを掛けてシワを伸ばしたことがないのだとか。確か、4年か5年は着ているそうです。
しかもそのジャケットは飛行機の中でも着続けるほど。シーズンにより、そういうジャケットがもう一つあるそうです。
もともと島田さんからこの話を聞いて、河合さんに興味を持ったように記憶しています。
前回の受注会時は、そのもう一つのジャケットで、今回はモヘアのネイビー。たしかにシワが刻まれているんだけれども、木でいうと年輪のような感じがしたんですよね。必ず刻み込まれていくもの。だから河合さんに、
「まさに皮膚みたいですね」
と伝えると、そうなんですよ、と。
お墓まで一緒に行くジャケットを、というテーマもあったので、いいシワが刻まれているといいなぁ、なんて思いました。
仕事が細やかである様子を眺めながら、思ったのは必要条件の基準が高いんだろうな、ということです。
十分条件として他のひとが考えている基準でも、必要条件の基準になっている。他のひとと比べるわけではなく、自分の中にある基準、美学のようなものがあって、それがエラく高い。しかも、外部に左右されるような基準ではなく、自分の中に基準を持っている。
「10月の中縫いをもしかしたら納品にできるかもしれませんが」(納品が10月だとこのジャケットはちょうどいいみたいです)、と自分からお話しつつも、「考えてみます」と結ぶあたり、細やかさもそうですが、仕事への姿勢を感じます。真摯な、という感じかな・・・。
河合さんが着ていたモヘアの色合いと肌触り(ガシガシ・ザラザラ・・・という感じですかね)を気に入ってしまい、もし見つかればと似たようなモヘアの生地探しを依頼。これもまた、楽しみです。
國吉さんのジーンズ、コスタさんのスーツやアントニオさんの革靴もそうですが、着るものとの関わり方が変わりそう。
着る度に、彼らの仕事や佇まいを思い出すわけですから。
コメント
毎度どうも。数理科学関連のお仕事が長いもので。一つご参考までにです。
必要条件と十分条件。
中学校でも習うので理解してるようで案外いい加減に使われている方時々見かけます。古典論理(命題論理,一階述語論理)とも関連が深く,いわゆる論理的思考の基礎にもなりますので今一度整理しておくと良いかもしれません。
論理包含、つまり
A → B
日本語ならば、Aが成り立つならばBが成り立つ、という論理が成り立っているとき、AをBが成り立つための十分条件、BをAが成り立つための必要条件という、というのは教科書の説明です。A、Bは命題と言われ、成り立つ(真)か成り立たない(偽)のどちらかの状態(値)しか取りませんので、70%でBが成り立つ、というようなことは(古典論理では)いたしません。またA、Bの時間的順序も因果関係も古典論理では関係ありません。Aを前件、Bを後件などとも言います。
さて。簡単な例から。
X=2はX*X=4であるための十分条件です。
論理式で書くとこんな感じ。
X=2 → X*X=4
この逆は(論理的に)成り立ちません。なぜならX*X=4だからと言ってX=2とは限らないからです。X=-2の可能性もあります。別の言い方をするとX*X=4はX=2であるための必要条件です。矢印の向きと「必要」という日常的意味から前件を「必要条件」と誤解する人がいますが「論理的」には間違いなのでご注意です。
も一つ例題。
それがリンゴであることはそれが果物であることの十分条件条件です。
それりんご → それ果物
りんごであれば果物確定ですが,果物であるからといってリンゴであるとは限らないので,この逆は(論理的に)成り立ちません。別の言い方をすると。それが果物であることはリンゴであることの必要条件です。
つまり,ある対象についての条件の集合がある(定義できる)とすると、常に必要条件は十分条件を包含しています。つまり、必要条件は常に十分条件よりも「広い」条件となります。日常生活の中で使うとすると、十分条件はより具体的、必要条件は抽象的な条件、と言えるかもしれません。
別の言い方で説明すると、必要条件というのはある命題が成り立つために最低限クリアしていなければならない条件(の集合)という感じになり、十分条件というのはそれをクリアしていればある命題が成り立つけれどもその命題を成り立たせるために必ずしも成り立っていなけれならないというわけではない条件(の集合)、という感じになります。
さて。ここで小野くんの文脈に戻ってみまして、前件と後件が何かは明記されていませんが,例えば、仮に「お墓まで一緒に行くジャケットを作る」ために「仕事を細やかにする」ということを実践されていて実際にそのジャケットができた、と仮定すると
「仕事を細やかにする」→「お墓まで一緒に行くジャケットを作る」
その「仕事を細やかにする」というのは「お墓まで一緒に行くジャケットを作る」ための十分条件です。なぜなら、「お墓まで一緒に行くジャケットを作る」ためには「仕事を細やかにする」という以外の別の実現方法がありそうだからです。もちろん前件と後件に何を持ってくるかで解釈は変わります。ただ、常識的には、「仕事を細やかにした」からといって必ずしも「お墓まで一緒に行くジャケットができる」とは限らない気はするので、この論理式自体成り立たないような気はしますが…現実的には「お墓まで一緒に行くジャケットを作る」ためには「仕事を細やかにする」+αのたくさん十分条件が必要な気がします….
ビジネスや日常の場面でここまで厳密に言葉を使う必要はないでしょうが、一応、いつか何かのご参考までに。
エラい学びになりました、ありがとうございますー!
最低限クリアしていなければならない条件(の集合)を、必要条件。
それをクリアしていればある命題が成り立つけれども、
その命題を成り立たせるために必ずしも成り立っていなければならない、
というわけではない条件(の集合)を、十分条件。
僕は言葉を使う際、厳密でなければならないと考えているので、
参考になります。ありがとうございますー!
付け足しで。
仮に、1000人くらいを観察して、全員
「お墓まで一緒に行くジャケットを作る」
ことができていたとして、その全員が実際に
「仕事を細やかにする」
ことを実現していたとすると、この観察結果から
「お墓まで一緒に行くジャケットを作る」→「仕事を細やかにする」
というように論理(式)を仮説として立てることは可能です。つまり、なるほど、仕事を細やかにするのはお墓ジャケットを作るための必要条件だ、という仮説です。ただし、1001人目で仕事を細やかにしないでお墓ジャケットを作っていたとするとこの論理が成り立たなくなるので、1000人観察してその論理が成り立っているからといってその論理を(厳密には)証明することにはなりません。こういった推論方法は仮説演繹法(帰納的推論方法の一種)と呼ばれ多くの科学分野で使われています。
いつか何かのご参考までに。
こちらも、ありがとうございます!