なぜ、体験はメッセージに独自性を加味してくれるのだろう??

アタックスの横山さんのメルマガを拝見してから、木坂さんの帝王学セミナーに参加し、最前列で拝聴。

ところどころ聴き取れていたある瞬間、ああ、これはこういうことなのかな、と思い当たることがありましたので記しておきます。

体験することが大切ですよ、と人は言いますし、僕も言います。どちらかというと体験の価値というのは、身体性を伴う経験なので、身体で覚えるから、というところにあると記すことが多いかもしれません、僕の場合。

同時に読書も大切だと僕は考えているのですが、読書って体験なのだろうかというと、確かに作者の考えや体験を追体験するという意味では体験なのだろうけれども、身体性を伴う体験に比べるとなんか違うな、と思っていました。

身体性を伴う体験と読書。共に大切だと思い、しかしその大切さの違いというものを言葉にできない。

こういう時は答えを出そうとすると他のところから、他の人から答えを持ってきて自分を説得してしまうので、置いておくに限ります。

そういう判断基準を持っていたので、言葉になるまで待とうと待っていたわけです。

それで今日、ふと言葉がやってきたので、、、コレはこういうことなのかもしれません。

身体性を伴う体験が大切なのは、それが一次情報だからです。二次情報、三次情報のように、他の人の考えやモノの見方、フィルター、色眼鏡、そういうモノを通していません。

だから自分が感じたこと、思ったことは少なくとも自分という人間が持っているものだと思うのです。

他の人がどう感じるかよりも自分自身がどう感じるのか。これを増やしていくことが、感性を養い、モノの見方を広げ、両極を知り、中庸を養っていく。そんなふうに思うんですよね。

一方、読書というものは、誤解を恐れず書きますと、ほかの誰かによる考え方、モノの見方、フィルター、色眼鏡を通してつくられた本を読みます。

風景描写にしても、青々と生い茂る木々と書くのか、緑溢れる木々と書くのか、体験した人の経験や感じ方、感性で表現は変わってきます。

どっちで表現しても大差はないかもしれませんが、印象は異なる(と僕は思います)。

だから、読書というのは基本的に、二次情報を読むのか、と気づいたわけです。

新聞も雑誌もニュースも、まあ二次情報になるのかな、この考え方だと。

一次情報と二次情報、どちらが純度が高いかと言ったら、まあ何をもって純度かにもよりますけれど、一次情報のほうが混じりけ無しで純度は高そう。

本というのはブレンドコーヒーで、自ら体験するというのはシングルオリジンコーヒーなのです。

ブレンドがよろしくなくて、シングルオリジンのほうがいいというわけではなく、かけ合わせ次第なんですよね。

だからたぶん、本を選ぶというのはとても大切で、誰が書いたのか、誰が編集したのか、により読むべきかどうかが決まるような気がします。

そして、自分自身の体験次第では、読むべき本というのはあるんじゃないかな、と思ったり。

どれだけ成熟しているかにより、二次情報を受け取っても中庸で眺められる。

左右されますからね、誰かの考え方に。まあ、自分の経験から、それはそれで大切だと思いますが。

あの人の話しってどこかで聞いたことあるな、と感じたら、たぶんそれは二次情報や三次情報に触れている人の話なんだと思います。

本や雑誌、新聞、インターネットで入手すればそれは似たような話になります。薄まったカルピスですね。

濃いカルピスの原液のような、メッセージとして主張がある強いものを出す人というのは、体験が豊富なんじゃないかな、と思います。だから独自性が出る。メッセージが強くなる。

一次情報というのは、原液ですからね、まさに。

高城剛さんのメルマガって濃いな、と思わせてくれるのは、彼の体験、一次情報がもたらすものなのかな、ということで、飛行機乗ってきます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください