別け隔てなく接するために、あらゆることを日常にする。

ビート・ザ・コントロール
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鳥取の智頭にいます。

昨日は八坂神社と肉専科はふう、そして平安神宮と回ってからスーパーはくとに乗り込み、智頭に来たわけですが、あ、スーパーはくとのお手洗いがウォッシュレットだったことには度肝を抜かれたわけですが、実ははふうで極上カツサンドを食べている時、

「そもそも島田さんに極上カツサンドを持って行く必要ってあるんだろうか?」

と考える自分がいました。タイミングとしてはお持ち帰りをお願いするならもうここしかないというタイミングでして、あと3切れ食べたら席を立たなければならないという、そんな時。

だから行こうという意識はあったのだけれども、無意識の僕はやらない理由を次々に探しだすわけです。だって、カツサンド持って智頭に行ったって短期的なベネフィットは何もないに等しいのですから。

しかしこのタイミングで島田さんから「ここにいますよ」と智頭の写真が送られてきたので、これには背中を押されましたし、もう一つ背中を押したのは「普通ならやらないことをやる自分でないと一流ではない」という僕の考えでした。

一流という言葉を定義すると僕の場合、以前も書いたことがあるかもしれませんが、あ、昨日でしたね、誰とでも別け隔てなく接することができる人を一流だと考えています。これが一流のすべてではなく、要素のひとつとしてです。

極端な話ですが、僕の息子とであっても、タイでボケーっとしているホームレスの方々であっても、スティーブ・ジョブズであってもローマ法王であっても、全能神であっても。

誰に対してもほかの人と接するようにそうすることができる。配慮と尊敬、愛情の念を持って。

そういう人でありたいと考える僕は、そういう人たちの生活を経験する必要があると考えるわけでして、だからこそあらゆることを経験するといいだろうと、そう思うわけです。

まさに京都から東京に帰ろうとしている時、はふうの極上カツサンドを買って逆に鳥取に行くというのは普通とは真逆です。普通ならば経験しないことだろうと。だったらこれは経験しないと、という論理です。

「この人はスゴイ、僕なんて・・・」と遜って接することも、「この人たちはこんなことも存じあげないのか」と驕って接することも、僕は違和感を覚えます。

遜るのは、目の前の人物がエライ実績を残しているからかもしれませんし、驕るのは自分のほうが実績を残しているからかもしれません。

だから、両極を経験する。

これは私見ですが、両方を経験しておくと心が穏やかになります。一般的に見てエライ有名な人が来ても心に波が立たなくなりますし、一般的に見て良い環境にいらっしゃらない人が来ても、同じように心に波が立たない。

すると、目の前の人をそのまま見て聞いて、対峙できるようになる。

あらゆることを経験するのは、そういう意図です。あらゆることが日常になれば、その行為についてスゲーと自画自賛して驕ることはなくなりますし、そういうことをやる人が登場しても、その人に対してスゲーと感じすぎてしまって遜るということもなくなります。

まぁ、たまには、オレってスゲーとか自画自賛したいなぁ、という自分もいることは、告白しておきますね。

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