11月に雪を見るなんて、僕の人生においては初めて(たぶん)。
ニュースか何かを見ると、50何年ぶりとか(関東地方・・・東京ですかね?)。
僕は一年の中においては冬に好感をもっておりまして、もちろん春や夏、秋も好きなんですけど、ピリッとするような澄んだ空気感と冷たさの中で研ぎ澄まされていく肌の感覚、遠くを見渡せるような目の奥の緊張感的なものが感じられるのは、冬なんですよね。
雪が降るとその感覚はさらに鋭利になってきて、だから雪山の頂上なんかは怖さも相まって安らぐ場所でもあります。
実家は神奈川の中でも雪が積もりやすい場所にありますが、今朝指を玄関に積もった雪にさしてみると、3センチか4センチは積もっていました。
積もってほしいなぁ、と思いつつ、積もったら明日の車移動は難しいかなぁ、とも思いつつ。
降り積もる雪を見ながらのブログ更新は、なかなかに贅沢だなぁ、とも感じつつ。
さて、自分で自分を評価する。
僕もよく自分で自分を評価しがちというか、前置きをした上で自画自賛することもあるのですが、本来評価というのは他者がするものであって、自分で自分を評価することってそれほど意味は無いのではないか、と考えています。
身体性を伴う経験をし、そうなるとそれは客観的に自分を眺めることができるようになりますから、例えば、セールスレターを書いて成約率を10%にしたとかですね、それを評価することはいいかもしれませんし、10%の方々から評価されたといえるかもしれませんから、こういうのはいいんじゃないかな、と思います。
しかし僕が危惧するのは、
まだ会社をつくっていないのですが・・・
Uターンなのですが、地元でまちおこしをやっています・・・
僕なんて、まだサラリーマンですから・・・
こんな感じにどちらかと言うと自分をマイナスに評価しているというか、勝手に評価してしまっているというか、そんな表現を使ってしまうことです。
まだ会社をつくっていないのですが・・・の裏に透けて見えるものは、会社をつくっていない自分に対する恥ずかしさみたいなもの。
Uターンなのですが・・・の裏に透けて見えるものは、Iターンのほうが本気度が高いよねと思っている自分に対する恥ずかしさみたいなもの。
僕なんて、まだサラリーマンですから・・・の裏に透けて見えるものは、独立していない自分に対する恥ずかしさみたいなもの。
自分の価値基準としてそう思ってしまうことは本人の自由だと思いますが、その結果自分自身をおとしめてしまうというか、いわゆるセルフイメージをよろしくないものに固定してしまうというか、そういう影響を考えると、
自分で自分を評価する表現を使うことは、極力避けたほうがいいんじゃないかなぁ、と思うわけで。
日本語だから、謙譲語とかへりくだるとか、そういう言葉を使うことで向き合う方々に対する敬意を示すこともあるでしょう。
僕も経験ありますが、どこかの会社の社長とか役員に会う時は、謙譲表現を使うこともありました。
しかし
誰彼構わずにへりくだった表現を使ったり、自分で自分を低く評価することってたぶん、相手にとってそれほど気持ちのいいものではないし、何よりその人自身にとっていいものではないと、僕の経験からは思えます。
特に、人生を変化させたいと願う人たちにとっては。
なんで自分で自分を勝手に評価してしまっているんだろう、と僕は感じてしまうのですが(いや、気持はよく分かるのですが・・・僕もそうだったので)、だったら真逆の選択をすればいいのに、と今では思います。
選択の結果、それをやっている。つまり好きでそれをやっているのだから。ガマンしているかもしれないけれど、好きでガマンして生きているのだから。
イヤなら、真逆の選択をすればいい。
それに人は自分が思うほど、その人のことを見ていないし気にしてもいないもの。
「自分を盛ってみせることも控えめにみせることもナルシスト」
とは、島田さんや木坂さんが言っていた言葉だと思いますが、
自分で自分を評価する人たちの表現を見て僕が違和感を感じるのは、まさにナルシストを感じてしまうからなのかなぁ。
人生を変えたいなら、自分に対する見方を変えていかないとね。
能動的に変えることができるのは、自分しかいないのだから。
コメント
再び。「自分」テーマいいですねー。ちなみに。日本語ではナルシストと言いますが、実はnarcissist(ナルシシスト)なんですね。Narcissismから来てます。
小野くんが言ってるのは、「評価」自体ではなくてたぶんある種の「評価の仕方」なのかなーと。小野くん昨日こう書きました。
> もともとは人を見る時に「行動と結果」を見たほうが、その人のことがわかりますよね
と言ったのは島田さんらしいですが、「自分」についても「行動と結果」(私的には「過程と結果」と言いたいところですが)を見ると(客観的に評価すると)「自分」のことが(もう少し)わかるかも、です。「自分」の評価ではできて、「他者」の評価でできない決定的なものがありますがそれは何でしょう?いわゆる「心」です。専門的には「感情「情動」「表象」「意志」などなど。他者の心はどうしたって自分には分かり得ないし、自分の心は自分自身しか本当のところは知りえません。しかも面倒なことは、完全に記録(記憶)できない、というところ。もちろん「あの子が好きだー」「超うれぴー」「めちゃかなしー」など覚えておくことはできるし、ブログやビデオで残しておくことはできるし、その時のことを思い出せますが、その瞬間の完全な「思い」は多分二度と再現できないでしょう。なぜなら!その「思い」はコンテキスト(文脈、歴史、環境、世界)を含んでいるから、だと私は考えてます。なので、「悔しー」「うれしー」などずっと忘れたくない思いは、その場にいた人のこと、その人が何を考えていたか、そこに至るプロセス、状況などをできるだけ一緒に覚えておくことにしています。それを次の「明日の自分」のためにどう生かすかは「今この自分」次第、といったところでしょうか。でわまた。
そうでした、ナルシシスト。
以前どこかで見た記憶があります。
評価自体ではなくて、評価の仕方。
感情、たぶんここは僕、評価という時には見ていませんでした。
行動と結果の話ですが、これはその人がどんな人なのかを判断する時、
言っていることよりも、行動とその結果どうなっているかという、
見て取れるものを見る必要もありますよね、ということでした。
この話はまた会った時にでもー
示唆に富むコメントをありがとうございます。
こちらこそまた!