自分自身でしか在りえない。

ビート・ザ・コントロール
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妹の結婚式に合わせた妻と長男次男の訪日は本日が最終日で、明日の朝には名古屋を経由してバンコクに帰ります。

タイの夏休みは3月半ばから5月半ばにかけてだったと思いますので、今は平日。明後日は長男次男を小学校と幼稚園に送り迎えするという、タイにおける日常がまた始まります

頭では仕方がないとわかっているのですが、両親や母方の親族から、「いまトモヤもユウキも夏休みなんでしょ?」と聞かれると、だから前に夏休みの時期は日本とタイで違うって言ったじゃん、とカーッとなるあたり、振り返ってみては理性の力が足りておらず、冷静で在らんといかんなと、反省する日々でありました。

冷静、平常心とも言うんですかね、何ごとにも波風立たない状態で在ることを求めている身としては、どこに原因があるのかを考えてみたりするわけですが、

概ねその原因というのは、人にあると感じています。

僕にとっての当たり前と他の一度にとっての当たり前というのは異なるものですし、その当たり前の相違により「なんか変だぞ」と感じることは、お互い様。

そんな中でも人間関係というか、人付き合いが成立するのは、相手のことを理解するというか理解しようとするというか、そういう配慮を互いにしているときでもまたあるのかな、と思います。

自分の言動を振り返り、目の前の人はもちろん、遠くはなれていたとしてもコミュニケーションをしている方々への配慮は十分にしているだろうか。

そんなことを、思う羽田での現在です。

近しい関係ほど甘えてしまうというか、きっとこの人ならわかってくれるだろうと、例えば両親や妻や長男次男など家族もそうですね。長く付き合っている友人やビジネスパートナーなどもそう。

コップに波々と水を注いでいるうちに、表面張力の限界まで水が貯まる時は来て、そのまま注ぎ続けるとさっと溢れ出ます。

僕は人間関係においてガマンは必要だと思いますし、それはある種の美しさもあると考えていましたが、先々のことを考えたら、人間関係においてガマンは不要なのかもしれません。

あれと思ったら指摘すること。また指摘してくれること。

配慮はあったほうがいいと思いますが、指摘することで遠慮するなら、そもそもその人とは付き合わない方がお互いにとっていい。

「諦める」の語源を先日島田さんから聞きましたが、なるほどなぁ、と感じました。

矛盾するとはわかっておりますが、僕らは何者にもなれると同時に、何者にもなれない。

こういう表現は広がりがなく窮屈な印象をあたえるので好みませんが、たぶん自分自身でしか在りえない。

誰とでもうまくやっていかなければ、というのは気のせいにすぎない。

あらためて、アプレンティスのときのことを思い出しました。

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