心斎橋にいます。
グレートジャーニーでもらったメールを思い出しておりまして、そういえば高校3年生の頃から僕は、「生きる意味?それはもともとあるものではないんじゃないですか」と発言していたことを思い出しまして、記しておきます。
そのメールには、執行草舟さんの本を引用し、「自分は何者なのか」という問いかけには「何が私であるのか」を考えるようになりました、とありました。
このメールをいただいた時、なんだか懐かしい気持ちになったのですが、つい先程その理由を思い出した次第です。心斎橋の寒さのおかげですね。
高校3年生の頃に現代文を教わった先生というのは、僕に革新的なものの見方を教えてくれた先生です。いわゆる「国民は国家に搾取されている」的な思想を持つ先生なのですが、個人的にはその人間性は好みでした。温かみがある、というのもその理由ですが、主義主張がある、腹に包丁を隠し持って生きている・・・まあ信念があるなぁ、と感じられたからです。
その先生は、「自分はなぜ生きるのだろう?というものの答えはそもそもないんですよ」のようなことを、デカルトの「我思う故に我あり」を題材にして、僕たちに伝えてくれた・・・あれ、コレ予備校の先生だったかな・・・まあ、18歳とか19歳の時に、割と革命的な思想の方々と接していたのですが、なるほどな、と思ったものです。
当時の僕はひねくれていたんじゃないかと自分では考えておりまして、「どうせオレのことを誰もわからないのに…」とか、「世の中バカばっかりだ」とか思っていた記憶があります。ええ、若かったんです(笑)。不適切な言葉遣い、恐縮ですが当時の回想ということで。
ちょっと詳細を思い出せないのですが、友人たちと集まった時、お酒を飲んで語り合うわけです。「オレは何をすべきなのだろう」「オレは何のために生きているのだろうか?」
その度に僕は、「もとから生きる意味」などないのだから、自分の魂が向かう先へと疾走するほうが先だろうと。そんなふうに思っていました。そんな酒のんで喋っている暇あったら、さっさとやれよ、と。発言も大切だけれども、単にホットに語りたいだけならば、何も残せないじゃないかと。何もしていないのにオレの生きる意味を求めるというのは、傲慢じゃないかと。
実は僕自身、「小野くんて口だけだよね」とサトケンという男に24歳あたりの時、言われたこともあるのですが、まあそれは棚のの上に置いておきまして。
父になり、長男次男が生まれると、僕になんだかよくわからないエネルギーを発生させる源泉になりました。だから彼らは生まれてきただけで意味があると僕は認識しているのですが、だからって長男次男がオレの生まれてきた意味はね、と語ろうものならバカヤロウ、とひっぱたくでしょう。それは他者が感じて言葉にすることであって、自分で言い出すものではない、謙虚でありなさいと。
彼らが生まれて意味を見出すのは僕が彼らの父だからであって、他者にしてみたら、僕と同じようにはならない。
「せめて男は女のATMであれ」という言葉を村上龍さんのエッセイから引用し、「せめて」は僕が付け足していますが、一人ぼっちになったら人はうさぎと同じようなところがあるから、せめて稼げるようになりましょう、そうすれば自分自身の存在を認識できるんじゃないですか、と話していた時もあります。
あらためて振り返ってみると、せめて稼げるようになりましょう、というのはマズローの欲求5段階説で言うところの、承認欲求のためなんじゃないかなと思います。自己重要感、自己肯定感を高めたい。
自分は何者なのか、と承認欲求と自己重要感などがこんがらがってきたので、僕自身言葉の定義を明確にしなければいけないなぁ、と気づきつつ
つまるところ僕は、高校3年生以降と変わらず、今でも自分は何者なのか?というものは「もとはというと無い」んじゃないか、「もとから備わっているものではない」んじゃないかと思っているのです。執行草舟さんじゃないけれど、「オレには生まれてきた意味がある」というのは、もともと選ばれて生まれてきたのだという、それは確かに両親などにすればそうかもしれないけれど、世間的には傲慢にも聞こえるように感じます。そうは言いながらも僕だって、「オレが生まれてきた意味はきっとあるはずだ」と信じたいですよ。二律背反の状態です。
しかし
人によって前のめりになるところ、喜怒哀楽が生まれるところ、夢中になるところは異なるように、僕たちの何か・・・便宜上魂としておきますが、魂から発せられる、突き動かされるような情熱とエネルギーというのは、経験上「確かに」あると考えています。でもこれは、自分は何者なのか、ではない。
だからたぶんなんですけれど、「自分は何者なのか?」というのは、自分以外の誰かが評価した結果、他者の口から語られるものなんじゃないかと思うんですね。
セールスコピーの評価は自分でするのではなくて、レジがなったかどうか、数字で行いますが、数字とはどれだけの他者が評価したかどうか、です。
僕は自分自身を評価する必要はない、と話しますが、コレは自分を評価するものは他者だと考えているからです。自分で自分を評価するというのは、どれだけ自分が好きなんだよ、と。僕はこういうのも好きですけどね。
自分は何者なのかも同じで、自分自身で決めるのではなく、他者が評価してくれるもの。
僕の姿を見たりして、「小野は◯◯なんだろうね」と他者が評価する。
そんなふうに考えています。
だからこそ、死んだ時が最高の自分であるという生き方を僕は志しているのですが、その時自分の葬式の様子を天から眺め、「アイツは◯◯なヤツだったよ」なんて言われるのを夢見ているわけです。
グレートジャーニーといただいたメールのおかげで、昔を思い出して言葉を整理することができました。
「自分は何者なのか?」、と「存在を認識する」(自分は役に立っているとかですね)ということは違う。
ありがとうございます!
コメント
なかなか奥深い内容で私の中の「エス」がどうしても一言言いたいそうで、ご参考までに毎度失礼します。
小野くんが言われるように通常「意味」「価値」といったものは、対象者に依存するので小野くんのご意見には同意です。小野くんの子供が小野くんにとっての意味とその他の人にとっても意味が変わってくるのと同様、「自分」つまり「小野くん」の存在価値、意味もまた対象者によって様々になるのは当然と思われます。と同時にその意味、価値はその者(物)にとってどうやって形成されるのか(されてきたのか)、他者とは誰か(何か)、誰が(何が)それを他者と決めて(認識して)いるのか、といった視点があるとまた違った角度から「自己」が見えてくるのではないでしょうか。
一つ極端な例を挙げますと、私にとってある程度の人間集団が私の周りで経済活動をしていることは私が生きていく上で非常に重要です。朝起きて水が出ないと困りますし、電気が使えないのも非常に困ります。パソコンでインターネットに接続できないと仕事になりません。その人間集団にとって私個人の価値はごくごく小さいものかもしれませんが、私を含む大多数の人間集団がこの場から忽然と消えると残された人間は非常に困ると思います。空間スケールを拡大して見たとき、地球規模で生態系がある程度維持されていることも私が生きていく上で非常に重要です。時間的にスケールを拡大して見た時に、生命が地球に誕生したことは私がこの世に存在するために非常に重要な歴史的出来事の一つで、その「最初の生命さん」の価値は私にとってかなりのものです。このように価値、意味というのは個人の人生スケールで見れるし、地球規模の集団スケールでも見れるし、逆に細胞や分子スケールでも見れます。と私は思います。
意味、価値の捉え方の極端な一例ですが、で。最初の問題に立ち戻って、では「小野くんの存在価値」は何にとって、いかにして形成されたのか、今後何にとってどうやって形成されうるのか。そんな視点もまた「自分とは何者なのか?」と再考するきっかけになるかもしれません。主観と客観のお話にも現象学にも関係しているお話だと思いますし、究極的には「自己」「世界」の認識の仕方、グレートジャーニーや自分のルーツにも繋がっていくお話だと思いますのでまたいずれ機会があれば。いつか何かのご参考までに。
確かに・・・わかる感じがします。
問いかけ、ありがとうございます!