1月1日のフランクリン・プランナーオーガナイザーに書かれていたメッセージが印象に残ったので紹介します。
「われわれの人生とは、われわれの思考が作り上げるものにほかならない。」
−マルクス・アウレリウス・アントニヌス。
ローマの五賢帝の中でも最盛期を誇った(確か)皇帝の言葉です。前後の文脈はわかりませんので、この言葉だけ見て感じた僕の私見ということで。
言葉遣いって大切ですよ、と小坂さんに学んでからは僕自身の言葉遣いのよろしくなさに気付き、それをあらためた結果、今に至ります。
そういう自分自身の経験もありまして、機会があれば言葉遣いがよろしくない人にはそう伝えるようになりました。
思考とはどういうふうにして行うのか?思考に必要なものは何か、といったら言葉。
発する言葉のように、人は思考するものだと僕は考えています。
否定的な表現を使っていたら、否定的な表現を使う人たちが集うようになります。これは極端でしょうが、その昔、「チョベリバ」とか・・・あと失念しました・・・とかそういう言葉を使っていた時代が20年ちょっと前にありました。今でも似たようなものありますよね、なんだか覚えてはいないのですが。
当時塾の講師をしていたのですが、チョベリバを使う中学生たちはチョベリバグループをつくり、使わない中学生たちは別のグループをつくっているな、と観察していました。
使う言葉で帰属意識を持つとか、そういうものもあるのかもしれません。
だからこそ私見ではありますが、「こういうふうに生きたい」と思ったら「そういうふうに生きている人たちと同じ言葉を話す」ようにすべきですし、その結果同じように思考することができるんじゃないかな、と思います。
チョベリバの皆さんのような生き方がいいなぁと思ったらチョベリバを使うといいですし、逆もまた然り。どこにも属さないのもまた、ありですよね。
今僕たちが生きている人生というのは、自分自身が思考した結果であり、自分自身の言葉がつくりあげた結果である。
こういうふうに考えると、言葉を変えれば思考が変わり、人生が変わるんじゃないかなぁ、と。
マルクス・アウレリヌス・アントニウスなんて世界史の授業の中でも覚えるのに時間がかかった皇帝でしたが、彼の言葉で昔を振り返ることができました。
やっぱり、僕の結論ではありますが、言葉って大切だなと思います。
真似できるところだけ言葉も真似するのではなく、とっさに我が出てしまって自分を守りにいった言葉が出てしまったときこそ、その言葉を引っ込める。
「僕はこうなんです」「私はこうなんです」
今の自分に満足していないのであれば、ここを乗り越えないと、ですよね。
思考が人生をつくりあげる。僕はそうなんじゃないかな、と思っています。
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