環境が人をつくる。

ビート・ザ・コントロール
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「お肉が好きだからって全部食べた。そしてお米が全部残った。そのお米は誰が食べるの?」

ホテルの部屋でごはんを食べたいとなり(妻がですけどね)、妻はタイが恋しくて日清のカップヌードルトムヤム味を買ってきてとリクエスト。

次男はまだごはんをそう食べないのですが、長男は割と何でも食べる。

しかし食べたいものをリクエストしなかったので、何がいいかと探す。

そういえば、上牧温泉でカルビ焼きのお弁当を食べていたな、と思い出し、同じお弁当を見つけて部屋に戻る。

和洋室に備え付けられた掘りごたつ風のテーブルに4人で腰を掛け、たぶん、この2週間で初めてじゃないかな、一緒のテーブルで4人でごはんを食べる。

iPadでYouTubeを観ながらのごはんを「ごはん中に観るのをやめなさい」と諭し、長男はお弁当を食べることに集中。

ところがその食べ方が、お肉だけ食べてごはんをそれほど食べないということだったので、言葉を選びながら長男と対話していく。

「もしユウキとそのお弁当を分け合うとする。お肉を全部食べてごはんだけユウキにあげる?」

「お肉だけ食べてごはんは余ったとする。余ったごはんをお母さんにあげる。それってお母さんはうれしいと思う?」

「お米をつくった人がいる。トモヤがつくったレゴをユウキが壊したら、泣いて怒ったよね。お米をつくった人がその残ったお米を見たら、どう思うだろう?」

親の背中を見て子どもは育つとはよく言ったもので、理由はどうあれ妻と僕の背中を見て長男の行動があり、長男の行動を見て次男の行動がある。

普段一緒にいないからと言って、ごはんの食べ方や礼儀について、長男と向き合うことを妻の責任にすることは違うだろうということで、

何度も怒りたくなる気持ちを感じつつ、深呼吸しては言葉を選び、長男と対話していく。

言葉を選ぶのは、今日この瞬間の言葉による会話が、長男や次男のコアをつくっていくと信じているから。

僕は決してそれだけで決まるとは思わないけれども、ある視点からすると子どもは親を選ぶことができないゆえ、親によって子どもの人生はほとんど決まるといってもおかしくないかもしれない。

今この瞬間、僕や妻がどんな言葉を使うのか。

どんな行動を取るのか。

どんな表情を見せて、どんな背中をみせるのか。

子どもたちは、全て見て、感じ取っているのだと思う。

ワイルドサイドの島田さんがクレイジーパパのコミュニティをはじめると聞いた時、ああこれは、男として必要なことだよな、と感じたもの。

父親の背中を見て子どもたちはやっぱり育つと思うし、どれだけ振り幅が大きな父親で在るかで、子どもたちの振り幅もまた大きくなると思うし、それが子どもたちの器を広げるのだと思う。

子どもたちのコアは、僕らが担っている。

そう考えると、島田さんとの会話から生まれたルーツを辿る旅もまた、僕ら自身は知っておく必要があると思うし、

これは僕の泣きどころ・・・セミナーで歴史の話をすると僕という人間が生まれるに至った両親や祖父母、ご先祖さまたちを思い涙が出るのですが・・・

なぜ僕が親孝行したり先祖を大切にしたりということをやっているのかというのも、自分自身のコアがそこに在るからなんですよね。

彼らがいなければ、僕はいないのですから(少なくとも今の僕にはそう思えます)。

ひとりひとりの足跡をたどるという、そんなコミュニティが2017年早々生まれようとしているのも、今の僕らの環境と無関係ではないように思います。

環境が人をつくっているのだとしたら、その環境をまず知ること。

自分というものが「どう在るべきか」の答えは、たぶん環境を知ることなしに導き出すことはできない。

自分がどこに向かうべきなのか、という答えは、自分の足跡が知っているのかもしれない。

長男と対話していたら、そんなことを思いました。

明日は、香港から。

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