身体というコミュニケーションツール。

東京の各都市や相模原、心斎橋やなんば、神戸や博多、徳島、バンコクや上海でも街行く人が皆同じようにスマホを片手にインターネットをしている様子を眺めるに連れて、何となくではあるのですが、身体というものを見直すようになりました。

なんか頭でっかちというか、情報とか知識とか願えば叶うってラクそうだからいいねとか、そういう無形のモノがあれば世の中オッケーみたいな雰囲気に、なんだか世の中流されているな、と僕は気持ちのよろしくなさを感じたからです。

そういう僕自身もインターネットは使いますし、iPhoneも持っていてLINEやメッセンジャーを活用しています。

つい一昨日は、WeChatの支払い機能を上海でも使ってみようとかなり興奮しておりまして(結局できなかったのですが)、ハタから見たら僕も「世の中に流されている」一員である認識もあります。

しかし、あらためて24時間眠り続けた時にインターネットとかiPhoneとかから距離を置いたところ、断然頭の調子はいい。

鈴木先生のベストパフォーマーズで学んだこととか、過去の成功体験とかを思い出してみると、身体の状態がよろしいことが、まず第一なんだな、と気づきます。

頭、脳ではなくて、身体です。

まず身体が整っていて、脳が整うんじゃないかなぁ、と。

こう考えると、適切にインターネットやiPhoneなどのデバイスを扱うには、身体を整えることが必要なんじゃないか、と思うようになりました。

こう書いていて笑ったのですが、コレはついここ3日間の話です。

僕にとってはこれまで、身体を整えることが、インターネットや各種デバイスを取り扱うには必要であること、情報や知識を取り扱うには必要であることとは考えていなかったんですね。

コレまでは何となくそうかなぁ、程度に思っていたかもしれませんが、認識まではしていなかった。

その証拠に、ここ3日間ほど僕は、「じゃあ、身体って一体何なのだろう?」と大真面目に考えています。

そしてコレは昨日だったかな、上海地下鉄12号線を降りて、龍華寺に向かって歩いている最中にひらめいた言葉が、

「身体はコミュニケーションツールである」

というものでした。

自分自身の中と外を結ぶ、インプットとアウトプットの機能を担うのが身体でして、血流が正常に流れないと脳も正常に働かないことからも想像できるように、血流が正常に流れる身体でないと、自分にとって正しくインプットできないだろうし、正しくアウトプットできないだろうと。

僕は難聴なぶん、非言語コミュニケーションに敏感なところがありますが、人々の表情や雰囲気から発せられるメッセージをキャッチするためには、身体というコミュニケーションツールが正常作動している必要があります。

空気を体感したり、表情を読み取ったり、という機能ですね。

こう考えてみると、「なぜ、おなかが空いたからコンビニに入ったのに、なにも買うことができないのだろう?」という、僕がたまに遭遇する現象を、説明しやすくなります(たぶん)。

頭では、おにぎりでもサンドイッチでも、お菓子でも買い、食べればおなかは満たされる、とわかっているわけですが、そうはいってもなにを買ったらいいのかわからないわけです。

頭では、おなかが空いているのだから、あるいは少しでも健康にいいものを選ぶのであれば、あるいは時間も時間だから、これこれにしたらいい、というのはわかっているのですが、それでも判断できないんですね。

これまでは単に、つかれているのかなぁ、、、程度にしか考えていなかったのですが、身体が自分の内側と外側(僕の認識では頭は外側になります。外部記憶デバイスのようなものです)を正常にコミュニケートする事ができていないと、「これ買ったほうがいいよ」という頭の知識と、身体の内側のセンサーのようなものとが通じ合わないので、判断ができないのかな、と考えるようになりました(考え中ですね)。

なかでも難儀するのは、理屈ではない部分の判断です。

自分のミッションとか、ゴール設定とか、商品コンセプトとか、、、これらって頭で考えることが必要ですが、頭で考えるためには身体の状態が整っていないと、「これでよし」という判断ができないんだと感じています。

言語化されるのは、もうちょっと先かなぁ、、、

4 Replies to “身体というコミュニケーションツール。”

  1. 毎度どうも。またまたお邪魔します。検討はずれかもしれませんが、少し言語化のお手伝いをしてみようかと思います。

    情報科学的な(ドライ?な)言葉で言い換えてみます。

    目、鼻、耳、口、肌といわゆる五感(視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚)という「センサー(インターフェース)」を通して、そこから得られた「情報」が神経を通って「脳(中央処理装置+主記憶装置)」に伝わり、ニューラルネットワークに蓄えられた記憶と合わさって情報処理され、その「(計算)結果」は口から音声として出力、もしくは身体動作として出力、あるいは新たな「記憶」として再び「脳(主記憶装置)」に出力(記録)される。

    ただし、実際は「脳」だけで情報が処理されているわけではなく、身体の中に張り巡らされた神経ネットワーク(あるいは細胞/体内細菌/分子ネットワーク)自体でも副次的に「記憶保持」と「情報処理」をしていると考えられて(補助記憶装置+補助演算装置)、そこからの「(計算)結果」が「脳(中央処理装置)」の「(計算)結果」と整合しない場合がある。

    特にこれらの身体に張り巡らされたネットワークは常に動きながら状態が変動していて、その状態によって「センサー」「中央処理装置」「主記憶装置」処理パフォーマンスに大きく影響を与えている。通常この身体ネットワークは(自律神経系によって)外部ノイズに対して安定的に(ロバスト)に動作しているけれども、オーバーロード(過負荷)状態が長く継続することや強力な外乱(ウィルス等)でネットワークの動作が乱れてしまい、その回復には時間がかかる、と。

    この身体に張り巡らされた神経ネットワークによる補助記憶や補助演算を、無意識だとか直感だとか経験知だとか理屈ではない部分、だと、もしかしたら言えるのかもしれません。

    小野くんの言いたいことと違う部分もあるかもしれませんが、どうぞご参考までに。

    1. 期待通りです、ありがとうございます、書きながらコメント来い来いと念じていました。

      コメント拝見して、僕がマーボーくんと談義してみたいのは、いわゆる魂と呼ばれている部分。

      今、目標達成には無意識を味方につけるのような連載をしているのですが、

      意識とか無意識って脳とか神経ネットワークで説明がつくと考えています。

      でも、気が合いそうとか、今日のフライトアテンダントさんは前世でオレが好きだった人のような気がするとか 笑笑

      思い込みかどうかはさておき、なんか気が合うなとか逆に絶対無理とかあるじゃないですか?

      それでオリエンタルを堪能中なのです。

      またぜひ!

  2. コメントのコメントで毎度どうもすいません。この問題「自分とは何か」というものにも深く関わるお話だと思うので(個人的には「生命とは何か」というお話にも)、小野くんも勉強したことがあるかもしれませんが簡単にざっくり復習させてください。

    いわゆる「心」のお話はギリシャ哲学まで遡りますが、ざっくり哲学の議題に上げたのが、かのルネ・デカルトさんです。

    心身二元論。我思うゆえに我あり(たとえ身体が存在しないと疑ったとしても)、で「心」と「身体」は別々に存在する、と。このアイデアが実は現代自然科学(主に物理学・化学)の基礎になってます(物理で心の重さとか扱う理論が教科書に出てこないのはそういう哲学の歴史があります)。

    これに異を唱えて出てきたのが「一元論」「物理主義」「唯物論」と言われる考え方。いやいやいやいや結局「心」も「身体(物理状態)」から生成(説明)されるんだよ、と。で、最近の脳科学者やAI研究者はなんとか「心」と呼べるものを作り出そう、脳の構造・機能から「心」を解明しよう、と日々研究している状態です。

    上で神経ネットワークの状態で「心(的状態)」が説明可能、だという視点も「一元論」的見方になります。これら総じて「心身問題」と呼ばれてますが未だ解決の糸口が見つかってません。これが(汎用型)AI(ロボット)が人間のような知性をもつようになるのはまだまだ先に話だ、と言われる所以です(この心身問題を語らずにペッパー君には「心」があるよー、なんて言う人はきっとモグリです…)。

    ただし、そもそも「心」って何?、というのが定義できていないので、生命って何?、自分って何?、というような問題と同様に何か考え方を一転させるような(天動説地動説のような)画期的なブレークスルーが必要だと思ってます(私見です)。

    「魂」のお話は…またいつか。

    いつか何かのご参考までに。

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