経済のグローバル化について語ることができるかというとなんとも言えないのですが、少なくともユニクロとか牛角とか世界の山ちゃんがバンコクに出店していることは目に見えるので、表向きの意味ならば感じることはあります。
しかし僕の目からは見えないこともあるわけでして、どちらかというとその裏側のほうが語るべき話なんだとは思うのですが、これは言語化できてから。
妻と長男次男が妻の従姉妹の家に遊びに行くというので、時間にして夜の2時辺りだったかな、息抜き兼ねて繁華街まで散歩してきました。
パッポンとかタニヤとかまでは徒歩10分程度なので、開いていたらマッサージでもしてライティングに活力を、なんてことを思っていたわけですが、パッポンにたどり着くと見事に露店は店じまいで飲食店も店じまい。
唯一元気だったのは、たぶんレディーボーイと呼ばれる方々専門のゴーゴー程度でして、あとは店じまいをするような雰囲気で閑散としていました。
相変わらず、14年前と変わらずスペシャルマッサージいかないと声をかけてくるトゥクトゥクの運転手は元気に活動しておりまして、つまりこれは需要が一定数あるんだなぁ、と定点観測的に学びました。
閑散とはしていたのですが、僕の知っているエネルギーあふれるバンコクの姿がそこにはありまして、ユニクロとか牛角とか世界の山ちゃんがすぐそこにあっても、変わらないバンコクの姿でした。
経済のグローバル化はさておき、どこの国に行っても服装というかファッションというか、そういう見た目もまたエラい勢いでグローバル化しているように感じます。
高城剛さんがメルマガで書かれていましたが、例えば台北ではちょっと前まで、街並みの発展にそぐわないちょっとズレた感じの服装をしている人がいたそうで、
しかし今ではそのズレた感じの人がいなくなったと。街並みに合わせて洗練されているというか、そういうことなんだと思います。
僕はこの文章を読んだ時、上海を思い浮かべました。
14年前のグランドハイアットはベルボーイが近未来的なモスグリーンのコートを着ており、その建物とベルボーイの近未来感を背景に、例えていうと江戸時代からタイムスリップしてきたようなちょんまげの日本人が普通に生活しているとか、そういうズレがあったんですね(実際にちょんまげの日本人がいたわけではなく、たとえです)。
しかし今では、まあちょっとズレた感じの上海っ子はいらっしゃるけれど、概ね日本にいるのと変わらないフィット感があります(日本でもズレた人・・・僕もそうかもですが・・・はいると思いますが、確率的には少ないと感じます)。
ここ13年間は、いわゆる欧米には行っておらず、近いところではトルコに行っておりますが、民族衣装を着ている場合以外、また割と年配の方々の服装以外はどの国に行ってもそう変わりはない。
これは考え方とか、国々の体制とか、ルールのようなものも同様で、世界が均一化に進んでいるように思います。なんだかマルクスみたいですね。今井先生が『資本論』を語っていたことを思い出しました(均一かと言っていたわけではないですが)。
サウジアラビアで女性のサッカー観戦が可能になる、というニュースを割と最近見た記憶がありますが、これまでその国に近い人でないと知り得なかったルールのようなものを僕らは知り、そしてそのルールが変わっていくさまを見ています。
アラブの春、なんかもそうですね。古くはベルリンの壁崩壊も(たぶん・・・一概には同じにできないと思いますが)。
インターネットにより、身近な情報というのは世界中の情報にまで広がったように思います。言語さえできれば、いや、言語ができずとも、Google翻訳を使えばおおよそのことはわかりますし、WEBサイトの自動翻訳もしてくれる。
こういうのも含めてグローバル化というならば、均一化とか平準化とか、そういうものが進んでいるんだな、と僕のなかで言語化されたんですね、昨晩パッポンを歩いていたら。
僕の母と妻とでは、育った環境が異なりますから、家事と子育てと仕事とを全部やるのか、分担するのか、で考え方は異なります。
しかし国は違えどもやがてこれらも、均一化してくるんだろうなぁ、と感じます。
金太郎飴だって美味しいものはある。けれど、世界中が金太郎飴になった時、僕らはどうやってそれを選ぶんだろう?
2018年を前に、そんなことを思いました。
コメント