人に対して絶望しなくていい。

ビート・ザ・コントロール
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新しいことを始めるとき、新しい学びを始めるときには少なからず緊張感があるものなんじゃないかな、と僕は考えています。僕の場合、難聴であることがそれを引き出す理由。聴こえにくい先生ならちょっと大変だな、とか考えます。2年とか3年とか前ならば、一緒に勉強する人たちとのコミュニケーション相性がストレス対象だったりしましたが、コレはもう考えなくなりましたね、そういえば。

先生の件も一緒に勉強する人たちの件もそうなのですが、かなりの方々が助けてくれるものだな、と。昨日の授業ではサポート担当の方が耳の聞こえ具合について尋ねてきてくれましたし、しかもわざわざ僕のプロフィールまで確認してくれた模様。「小野さん、高知なんですよね。僕は愛媛なんです。四国つながりということで」こんな感じで。うれしいものです。

できないことをできないと伝えることで、そのできない人に対する接し方が変わるものです。もちろん皆が皆変わるわけではなく、逆によろしくないような接し方をする人もいるかもしれませんが、大多数はそんなことないんじゃないかな、と思います。

総じて、目が優しい。声をかけたり行動として現れなかったとしても、配慮してくれている雰囲気はよく伝わってくる。

サポート担当さんの場合、作法について僕が戸惑っているとき、周りを見て行動が遅れているときは、特に手を差し伸べてくれるようになりました。スッと肩とかを押してくれたり、作法の例を目の前で即興してくれたり。

人に対して、絶望しないでいい。

僕は難聴であることを自覚してからというもの、たぶん中学校時代の部活動からですが「わかってくれないだろうから」と人に対して心を閉ざし気味にして生活していたと思います。怖かったんですね、恥ずかしい思いをすることが。自分を守りたかったんだと思います。

しかし自分を守るということは、攻める相手がいるということ。恥ずかしい思いをしたくないということは、恥ずかしい思いをさせる出来事を生み出してしまうということ。すべて、両極があって、それらは同じものだったりします。

表裏一体、というかね。

だから、守らなければ攻められない。恥ずかしいという言葉をなくしてしまえば、恥ずかしさを引き起こす出来事も存在しなくなります。

「我」はいらない、ってこと。

これは決して自分の主張を持っていないとか、そういうことではなくて、近い言葉でいうと自尊心とかエゴとかプライドとか、そういうものにあたるのかな、と思います。手元に辞書がないので、調べずに書いてしまいましたが。

世界は、自分自身の思考でできているんだな、と。

同じ難聴者の人に、「耳が聴こえないのは神さまからの、聴こえなくていいよ、って言うメッセージだと思いますよ」、こんなことを伝えたら、「その言葉に救われました」と話していました。

自分だけを注視するとなんか可哀想に見えてしまうというか、そんな自分をわかってくれない人たちは好きじゃない、なんて思ってしまうのはよくわかります。

でも、人に対して絶望しなくていい。それは自分の思い込み、我が生み出す幻想なのだから。

主観と客観をバランスよく、持ちたいものです。

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