今日は新宿へ。アプレンティスで出会った方の1.5次会に向かっています。
20代や30代は毎月のように結婚式へと向かっていたような記憶がありますが、今ではたまに呼んでくださるほどに数は減りました。かつては学校の同級生から呼ばれることが多かったですが、段々とアルバイトや仕事関係、そして塾や教育実習でお世話になった生徒さんから呼ばれる比率が高まっていったなぁ、と。
ブライダル業界でスライドをつくっていた経験から、割と結婚式は身近なイベントのひとつです。
個人的にはこのイベント開催中は仕事をしなくても良いという認識なので、呼ばれるとうれしい。これは新郎新婦にはいえませんが、「休める〜」という感じで。僕がWIFIのない飛行機を好む理由や船を好む理由はここにあります。仕事の連絡から解放されるからです。
その点島田さんはタンタンと、どこにいても仕事の状況を手元のiPhoneでチェックしている感がありますから、常に「自分で決めて、人に合わせない」という在り方がすごいなぁ、と。理屈としてはわかるけれど、なかなかできないことってあるものです。
たとえば、「走らない」ということ。
これは2015年の7月に、智頭で島田さんから聞いた話ですが、電車のドアが閉まろうとしていようが、飛行機が離陸前のファイナルコール中であろうが、ソレに合わせて走らないことが大切、ということ。
僕の解釈では、能動的に走るならいいと理解していますが、多くの場合、電車が発車しようとしているからソレに合わせて走るのでしょうし、飛行機が離陸しようとしているからソレに合わせて走る。
これだと、コントロールされてしまっているよね、と。
確かになぁ、と思い、それ以来「走らない」を意識しています。そういえば昨日、走らないを意識していたら、僕が乗り込んだあとにバスのドアが閉まったなぁ、と。そういうものなんですよね。
仮に乗れなかったとしても、どうするかを決めればいい。自分で決めて、行動する。すると、感覚的な話ですが、スーッと胸のあたりが軽くなります。姿勢がピンと伸びて視野も高くなり、なんというか、脳が透き通ったように無になるんですよね。
僕らは生きていくにあたり、「何何しなきゃとか」さも当然のように言うけれど、それって自分の意志なんだろうか、誰かの意思に従っているだけなんじゃないだろうか、と僕は考えています。
電車が今発車しようとしていたって、それに乗れず待ち合わせに遅れたって、別にいい。自分の人生に責任を取る生き方を選んでいるのだから。
ビート・ザ・コントロールというのは、そういうこと。
逆に自分で責任を取れないから、という生き方をするのであれば、遅刻はすべきでないし、電車のドアが閉まろうとしたら走って飛び乗るべきでしょう。
ビート・ザ・コントロールというのは、自分の人生に責任を持つ、と言い換えることもできるのかなぁ、と。
責任を取らずにコントロールしようとしても、できないですから。
僕らの脳は恒常性が働き、変化を拒み、変化した行動を元に戻そうとします。ラクな方へラクな方へ、ですね。
ある意味誰かに理解してもらおうと説得するのは、恒常性が働いているのかもしれません。実は「止めてほしい」と考えているかもしれませんから(一方で、認めてもらいたい、という気持ちもあるでしょう)。人の行動って、おもしろいものです。
不思議なもので、自分で決め、自分が変化すると周りも変化するもの。その結果、「説得できていた」「態度で示して応援してくれていた」、という感じなのだと思います。
成るのではなく、成っている。
「説得」するのではなく、「態度」で示していたら「協力」してもらっていた。
だから、「説得」する必要はない。自分がどう在るかを決めることのほうが大事。
何かをはじめるとき、自分以外の誰かに許可を得る必要はない。
昨日のブログに関して島田さんがブログでさらに話を展開してくれました。
それを読みながら考えたことが、今日のこの記事です。
よかったら、その島田さんのブログを読んでみてくださると。
あ、その際「言葉の定義」を意識してみてくださると。どんな意図でその言葉を使っているのか、ですね。
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