今朝は4時に目覚めまして、これから高知県東洋町甲浦にある八幡宮まで行ってきます。神社参りです。
この神社は祖父から預かっている神社でして、その歴史は室町時代からという話も。確か3年前に来たときは、老朽化して傾いた本殿を元に戻そうと、千葉から人がやってきての修繕プロジェクトがあったように思います。
確か、『解体屋ゲン』というマンガだったと思いますが、そこに掲載された話でもありますので、ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。単行本は何巻に掲載されているのかは確認していないのですが、週刊誌を購入し、読んだ記憶があります。
今回神社参りをする理由は、昨年と今年は訪れていなかったので、気になっていたこと。それが理由です。直階という神職でありながら、行っていないとは、と笑ってしまいましたが。
祖父から守ってきた神社を何とかせねばならない、という気持ちは僕にとって意識的なものではありますが、祖父や先祖への感謝を伝えるという気持ちは、僕にとって無意識的なものです。
なんとなく行こうかな、そういえば母方のお墓参りも昨年と今年はまだしていないな、と感じていた矢先に合いの手が入りまして、行くなら8月1日がお墓参りで、8月4日が神社参りですよ、と。
その日取りも意味のある日を選んでいるようで、感じていたことと友人のアドバイスが一致して、コレが高知行きを後押し。8月は母方のお墓参りにも行ってきます。
コレは、僕にとっては自然な考えであり、自然な行いのように感じます。
「こうしたほうが、周りも喜んでくれるから」
という考えを判断基準にすると、少なくとも僕にとってはいい結果をもたらしません。たぶん、意識的な打算のようなものがあると、それが周囲にも自分にも、透けて見えるからなんじゃないか、と考えています。
タイではタンブンといい、割と日常的にお寺に行き、お布施のようなことをするのですが、僕の周囲にいるタイ人がなぜタンブンに行って「お金持ちになれますように」と願っても、そうはなれないのかというと、それが意識的な打算からくる願いだからなんじゃないか、とも考えています。
「そうであったほうがいいよね」だとそれは叶わない。なぜなら、別にそうでなくても幸せだったりするからです。意識的にはそうと思えなくとも、無意識的には。
違和感を感じていなければ、そうである必要がないからです。
一方で、自分の中で感じる違和感、自分の無意識、自然とそうありたい、そうあるべきだ、という気持ちに従うと、それは自然と叶っているもの。
「もっともっと影響力のある人物になるにはどうすればいいのか?」
のようなことをその友人と話したのですが、すると彼は
「もっと徳を積むことでしょうね」
と話していました。なるほど、見える世界が拡がるんだろうな、と感じました。
人には、ステージがある。
そんな話と繋がってきまして、コレはすべての人にとって可能性のある話だな、と感じました。
打算的な、意識的な「ねばならない」、そういうMUSTから自由になって、自然とそうありたい、という声に耳を傾ける。
ブルース・リーだったかな、「考えるんじゃない、感じるんだ」という言葉をどこかで言っていたように思いますが、いわゆる名言には意味があると考えています。
自分の中にある違和感を、大切にしたいですね。
では、神社に行ってきます。
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