トロピカルフルーツこそまだ食べてはないけれど、プーケットの朝は夜よりも、南の島を感じることができる。
一階の部屋の向こうにはプールが見え、早くから散歩をする宿泊客と清掃をするスタッフの方々を眺めつつ、長男はその緑なのか人なのかはわからないけれども、それらを見て手を振っている(じゃあ、人かな、やっぱり)。
妻がこのホテルに泊まりたいと言ったのは多分、友だちが勧めてくれたからというのと同時に、ちょっとセレブレティな感じを味わってみたいとか、これまで実現できなかったようなことを経験するという、そんな気持ちもあったのかもしれないけれども、
トモヤ(長男です)にしてみたらそんなことはどうでもよくて(ついでにいうと、友だちのひとりはモルディブ、もうひとりはローマ、そしてタイのどこかの島に行っているらしい。LINEの連絡網でお母さんがピサの斜塔を楽しんでいる写真が送られてきたのですが、子どもじゃなくてお母さんが楽しんでいるのは、ちょっと引きつつもいいなぁ、と思いましたが)、
バンコクやプラプラデーン、これまで行ったことのあるアユタヤやチェンマイ、チャイナート、そして東京や神奈川、静岡、岡山、鳥取、京都、長野では見たことのない景色、聞いたことのない音、触れ合ったことのない人との出会いが、エライ新鮮で、すっと身体に吸収されるというか、そんな風に楽しんでいるんじゃないかなぁ、と思ったりしています。
普段と違う場所にいるからトモヤは目覚めがよく、朝からニコニコして「ああ、テンション高めだなー」という感じですが、ユウキ(次男です)は相変わらずまだ寝ています。
それが、僕にしてみたら家族感というか、距離の近さというか、安定感というか落ち着きというか、そういうものを感じさせてくれるわけですが。
一緒にいる時間が長くなると不思議なもので、一緒にいる人のように人はなっていくと僕は体感しておりまして、
コレの最たるものは妻と長男次男、そして僕の両親と妹なわけですが、
ワイルドサイド部の皆さんとタイやインドに行き、毎月の賢者舎で会う時間が増えるに連れて、タイのときよりもインドのときのほうが、やっぱり距離感が近くなる。
いわゆる「あうんの呼吸」になってくるわけなんですけど、
先日の木坂さん西洋思想史クラスか歴史学・地政学クラスか、どちらだったかうろ覚えなのですが、家族の在り方というかそういうものも時代性に応じて変わってきますよね、みたいな話がありまして、
なるほどなぁ、と思うわけです。
なんというか、昔の日本はいわゆる大家族的な家族形態だったと僕は考えているのですが、血縁的な繋がりではない、別の何かでつながる大家族的なコミュニティが成立していくというか、
ゆるやかな、同じような山を登っていくというか、そんな感じ。
仕事をしていない妻にしてみたら、どこに旅行へ行くのか、どこに泊まるのかは僕によるところが大きいですし、属する環境によるところが大きいでしょう。
そしてそれは多分、どの口座に参加するとかどのセミナーに参加するとかいうことも同じだと僕は考えています。
テクニックややり方、目に見えて簡単に手に入りそうなスキルを学ぶセミナーに参加すれば、そういう人に出会うことになりますし、
自分はどう生きるのか、そのためにどう在るのかのような、Beingな講座やセミナーに参加すれば、そういう人に出会うことになります。
そしてそれは多分、その人の人生を決めるものになる。
僕は、自分という人間は他の何者にもなれず、自分という人間にしかなりえないと考えているのですが、それでも一緒にいる人のようになっていくと考えています。
頭が澄んだ状態でサラサラと書く文章も、いいものだなぁ、と思いつつ、今日はこのへんで。
コメント