タイの家族に海外送金の手続きをしている間、YOMIURI ONLINEで見たニュースに目がとまりまして・・・
春節に異変 中国富裕層がこの時期の日本は敬遠?
半年程度前の記事ですね。
中国のどこかの都市に行ったことがあると、日本で言われているような中国人像は偏っているんじゃないかと感じる人はいるかと思いますが、
僕も含めて、現地に行ったことがなかったり、本で読んだりする程度だと、どうしてもなんらかのメガネが邪魔をしてしまい、木を見て森を見る的な解釈をしがちだと感じています。
随分と中国人観光客は減ったと言われていますが、例えば心斎橋に行くとこれで減ったのかと感じる程度には中国の方々はおりますし、確かに日本人の立ち振舞とは異なるので、別に騒がしいわけではなくとも動作を見たりするだけで騒々しいと錯覚してしまったりすることってあるなぁ、と。
この記事を見ると、そういう見方をされることをうれしいと感じていない中国の方もいるよ、という内容のように受け取りまして、タイトルにある富裕層かどうかはともかく、人は基本的に特別扱いしてほしいと思うわけですし、それはそうだろうと(人同じであることを好む人もいますが、とはいえ扱いは丁重に特別にしてほしいと思うのがヒトゴコロだと僕は思います)。
このあたり、特に面と向かっていないときは僕自身相手がどう感じているかはわかりえないところなので、顔が見えないときこそ想像による解釈をなくし、会いに行くなりあるいはそのままわからないまま置いておくなり、そういう工夫が大切なんじゃないかと感じた次第。
ちょうど昨日の木坂さんによるマスタークラスで、「善く生きる」という言葉がアリストテレスの考えを引用しながら登場。
サンクコストから自由になること。
善く生きること。
自らの卓越性を世界に発揮してこそ価値が生まれるということ。
善には個別性があること。
求められていることをただひたすらやっていくということ(をアリストテレスは一貫して話していたらしい)。
固有の機能を卓越させていくことが善につながるということ。
個人的に「これぞ木坂節だ」とうなったのは、人間機能の完成と卓越性の追求という一連の流れでして、
ここで、「ありのままでいい」という言葉に感じていた気持ちのよくなさを、木坂さんがわかりやすい言葉で言い直してくれたんですよね。
「ありのままでいい」とか「自分らしく」というと僕は、「そのままでいい」という、なんだか努力も何もしなくていいというふうに聞こえてしまい、これらの言葉自体使っておりませんでした。
木坂さんが言うに(聴き取り違いがあるかもしれませんので、私見として書いておきます)、
「これら全てに固有の機能があり、その固有の機能を卓越させていくことが善につながる」
「ありのままというのは、人間ではない。人間になる、ということは、機能を完成させていくこと」
植物や動物にも備わっている機能と人間の機能を伝えつつ、与えられた味覚なり感覚なりをそのままにしておくのではなく、それぞれの卓越性を発揮して価値を生む必要がありますよ、と。
そんなふうに、僕は解釈しました。
なんか、いいですよね。
それぞれの卓越性を、世界に対して発揮してこそ価値が生まれる。
みんな違って、だからいいというか、そんなに文字通りのゆるくてヒューマンな意味じゃないんですけど、
そういうそれぞれの卓越性を発揮する人たちが増えれば、世界のいたるところがうれしくなるんじゃないかな、と思います。
求められていることは何か?
自分に近いことは何か?
いろいろと、つながっていますね。
それぞれの、卓越性を発揮しましょう。
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