人は見たいものしか見ない。

ビート・ザ・コントロール
この記事は約3分で読めます。

現在、浅草の蔵前にいます。

浅草と言っても目の前に雷門があるわけでも浅草寺があるわけでもなく、住所に浅草がよく登場するのでこのへんは浅草なのだろうと推測している次第です。

明日は両国で木坂さんの西洋思想史クラスと(歴史学だったかな・・・)、その前にはケイコさんと島田さんとでプロジェクトのミーティングがあるため、

また朝にはスカイプでのセッションを予定していたため(ご自愛くださいー)、前乗りして今ホテルにいます。

浅草と推測していることもそうですが、人は一般的に、見たいものしか見ていないと常々感じています。

僕がよく「9割聴こえていないのです」というと、島田さんが

「小野さん、普通に聴こえる人でも聴こえていませんから、大丈夫です」

と冗談のような話をするのですが、

これは言い得て妙だなぁ、とつくづく思います。

例えばですが、僕が浅草にいますというと、僕が上に書いたように「浅草寺にいるんだな」とか「雷門にいるんだな」とか、「天ぷらでも食べているんだな」と人は想像するかもしれません。

想像する内容はなんでもいいのですが、多かれ少なかれ、僕が「浅草にいます」というと、これを読んだ人は独自の浅草を思い浮かべている、ということです。

これ、当たり前といえば当たり前ですが、コミュニケーションを行うにあたっては怖いなぁ、と思うことでもありまして、

ある言葉を発した瞬間に、意図していない意味合いでそれを受け取られてしまう可能性があるからです。

これは情報発信する側の力量によるところもあるのですが、例えば僕の発するメッセージをシロと受け取る人もいればクロと受け取る人もいる。

この違いはどこから来るのか。

私見ですが、ひとつは感情的なもの、僕に対する感情的な気持ちに左右される感があります。

好意的ならば好意的に見るし、好意的でないならばそのように見る。

そして言葉の定義。

これは一緒にいる時間の長さ、共有する経験の数により、文脈が共有できるようにもなりますので、僕の話すように聴き取れるようになってくるようですし、逆もまた然り。

このブログを初めて読む人は「男は女のATMであれ」を「なんてマッチョなやつだ」と読むかもしれませんし、ブログを読んで長い人は「まぁ、まっとうだよね」と読むかもしれません。

いずれにしてもわかるのは、人は自分の見たいようにみるものだし、それは訓練でなんとかなるのだけれども、なかなかそれは骨が折れるよなぁ、ということ。

よく「我を外したほうがいいですよ」といいますが、これは逆にいうと、いろんな色メガネを付けたほうがいいですよ、ということでもある。

自分を相対化してみるというのは、コミュニケーションの上ではもちろん、コピーを書くときにも大切なんだよなぁ、と思いつつ、

それもそうだけれども、自分の伝える力というものを鍛えないといけないなぁ、と思う今日このごろです。

セールスライティングスタートアップガイドの無料入手はココから↓




コメント

タイトルとURLをコピーしました