バンコクにいます。
昨日の入国審査はこれまで見たこともないほどの混雑ぶりを感じさせてくれるものでして、ここを曲がると入国審査という角のあたりから、すでに行列ができているほど。
その見た目の混雑ぶりを横目に、その先にある入国審査場まで足を運ぶと、先程見た景色よりはどうも空いているっぽい。
ASEANレーンの左隣の列に並び、待つことしばらく。
立て札によると「ここから45分」とか書いてありましたが、実際には10分ほどで行列は終わり、入国審査官の前に並ぶ列へと移動。
予想通りにASEANレーンの担当者が列の人数を把握しては空いている列へと移動させてくれるので、入国審査ならここに限るなぁ、とあらためて思った次第。
入国審査を終えたあとは、そのままエアポートリンクという電車乗り場に移動し、チケットを購入してパヤータイへ。
そしてパヤータイからはBTSでコンドミニアム最寄り駅まで移動。
スターバックスでアメリカーノを購入し、その後でコンドミニアムへ帰宅。
タイは本日が母の日でして、たぶん土曜日の関係か前日の金曜日に学校や幼稚園では母の日のイベントを開催。
お母さんを学校に招き、壇上で各クラス1名のお母さんと生徒が登場し、母の日のプレゼントを渡すというイベントなのですが、日本の母の日といえばカーネーション程度の認識である僕にしてみると、タイにおける母の日イベントは、入学式とか卒業式に匹敵する学校行事になっています。
わざわざその様子を映像にして(制作会社がつくったような、プロっぽいやつです)、父兄に配信するほどの力の入れ具合。
日本からタイに来て驚いたことのひとつはこの母の日の扱いなわけですが、お母さんを思って涙を流す様子を見たときは、国によって後も違うのかと衝撃を覚えた記憶があります。
日本で出会う外国籍の方、またハーフの方を考えると、国境というものがかつてに比べると、日本という島国でさえ下がっていっているように感じられるのですが、これは僕だけの感覚でしょうか・・・。
諸外国の文化風習はもちろん、僕らは日本の文化風習も知っておかなければならないんじゃないかな、とは14年前のひとり旅の最中に、特にトルコで感じたことではありましたが、
僕らは何者にもなれるという錯覚を起こしがちな近頃だからこそ、自分自身のルーツというものは知っておく必要があるんじゃないかって思います。
目的地の設定には、出発地の把握が欠かせませんから。
母の日ということで、これから妻のお母さんのところに行くとのこと。
明日は、再び東京へ。初の直行便で、長男次男がどう過ごすのか、楽しみです。
コメント
毎度どうも。返信不要で。
>僕らは日本の文化風習も知っておかなければならないんじゃないかな
多分外国に住んでいる人みんなそう思うと思います。小中高と歴史は本当に成績が悪く、各歴史イベントの年代を覚えてもすーっとテスト後に消え去ってましたが、初対面の外国人との会話の第1位はまず言語の話、次に日本の文化歴史について聞かれます。そういう経験を通して改めて自分は日本語についても日本文化についてもこれまでの人生で全然意識してこなかったことを痛感させられるものです。
空手を学び始めたのもアメリカ留学後の30歳になってからです。日本語の特徴を意識するようになったのも妻に日本語を教えるようになってからで、ドイツ語の影響もあるかもしれませんが、改めて日本語(+日本文化)というのは良くも悪くも細かいところまで語らないで文脈(や共体験)に頼る言葉(文化)だな、と最近は思うところです。冠詞や複数形が日本語にはないと言うと大抵外国人は驚かれます。子音が聞き取りづらい小野くんにとってはまさに文脈や共体験を最大限使ってコミュニケーションされていると思いますが、私以上にそこらへんの違いを肌で感じているのではないでしょうか?以心伝心なんて言葉も日本文化を象徴していると思います。あと日本語には同音異義語が多い(だからダジャレがいっぱい作れる)とか、擬音語(オノマトペ)が多い(ポツポツとかダンダンとか)とか、多分これらも何かの日本文化から来ているものだと思います。
いつか何かのご参考までに。
日本語が通じてうれしいと思う空間もあります。
最近だと日系航空会社の機内とか。
一方で、日本語が通じないほうがうれしいと思う空間もある。
それは、文脈に頼らない度合いが、日本よりも高いからなのかなぁ、
とまーぼーくんの書き込み読んで思いました。言わなきゃ伝わらない。
文脈という言葉って、都合良く使われている感もたまにするので。
細やかに話すべきなのに、言わない美徳というか。コレはこれでいい側面もあるけれど。
個人的には前前職で先輩が言っていた言葉なんですが、
論理なくして人は理解しえない
その上での文脈だと、うれしいんですけどね。