早朝にバンコクへ到着し、次男を幼稚園に送った後で再び空港へ。
今日明日はLicense to beatの3クラス特典、「南国ロマン体験」の開催日でして、参加者を待っているところです。
このあとはホテルにチェックインしてもらい、その後はタイ式フットマッサージミーティングかな。で、タイ料理ではなくて熟成肉のお店に行く予定。
女性の皆さんには申し訳ないのだけれども・・・南国ロマン体験とは男にとってのロマン体験を考えていたため、女性にとっての南国ロマンとは何か、というのが現在到着を待っている僕の課題となっています。
今日のバンコクは僕にとってはめずらしく快晴。遠くまで見渡せる透明感あふれる空気は、記憶にないほどです。
さて、昨日はコンテンツライティングクラスとQUESTセールスライティングクラスを開催し、土曜日には自分という器クラスを開催したのですが、全体を通してのテーマに「体験」と、そして「半年後により良く暮らしている」というのがあります。
昨日のクラスでも割と熱が入ってしまったのは、「どう生きるのかにより、半年後の目標は変わってきますよ」ということ。
毎日の安定・生活の保証のようなものを求めているのか、誰もが通ったことのない道を求めているのか、社会をより良くしたいと思うのか。
もちろん個人個人の「どう生きるのか」に対する回答は人の数だけ存在しているはずでして、だからこそ僕が違和感を感じるのは、例えばですけれども、セールスライティングを学びたい、という理由が似通っていること。
ひとりひとり違う(似ていることはあっても)のに、なぜゴールは同じ言葉なのか。ひとつ思うのは、先を見すぎているというか、先しか見ていないのではないか、というのがあります。
自分の生まれや育ちを見ないで、先だけを語るというのは、誰もができる。
しかし、僕らには人と異なる両親がいて、祖父母がいて、ブラッドライン、ていうんですかね、脈々と受け継がれている何かがあって、それは決して人と同じであるはずがない。
僕と妹のような兄妹であっても、生まれてから今まで出会ってきた人々は異なるわけですから、育ってきた環境、育まれてきた環境というのは異なるわけで。
『進撃の巨人』がクレイジーパパの課題図書だったこともあり、先日の「正しさとは」ディスカッション後に再度読んでいるのですが、
主人公が属する調査兵団の人数が減っていくごとに、各々の役割とか個性とか、そういったものが際立っていくのを感じました。
人数が多い時は気づかなかったけれど、そもそも人って各々の役割とかあるはずだよね、と感じまして、今これを書いています。
僕はコア・バリューとかマスタープランとか、そういうものが大切だとマイケル・マスターソンに学んでいるのですが、例えば理想の一日というものを書き出すにあたって大切にしていることは、僕自身に違和感がないかどうか、です。
違和感はたぶん、自分の生まれや育ちを見ようとしない時に、発生するのだと僕は考えています。
コア・バリューもマスタープランも、自分の生まれや育ち、これまでの環境から切り離すことは、たぶんできない。
セールスライティングを学ぶ理由もまた、自分の生まれや育ち、これまでの環境から切り離すことはできないんじゃないかな、と思います。
自分のルーツを辿る、ということの意味は、もしかしたらここにもあるのかな、と感じました。
なんだか、全てはつながっているんですよね、たぶん。
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