「お金のことを考えなくていい環境が、自らの卓越性をより発揮するには適しているから」。なぜ、経済的な自由が必要だと思うのか?と聞かれたら、今の僕ならこんなふうに答えるかもしれません。
すべての人に言えることではないかと思いますし、例えば毎日食べるものがある環境においては、堕落した生活を送る可能性もあると考えています。
しかし、自らの卓越性を発揮するためには、お金のことを考えなくてもいいゆとり、環境が必要なのではないかとふと思いました。
いや、卓越性を発揮するということは、お金のことを考えなくてもいい状態になっているのかもしれません。
今の僕にはなんとも言えないのですが、少なくとも言えることは、結果として経済的な自由というものは、自分自身をまっとうするためには必要なんじゃないか、というものです。
コレは決して多くのお金を手に入れましょう、ということではなく、その人のライフスタイル、個人的には「徳」と単語を最近は好んでいるのですが、徳によって必要な額は変わってくると思います。
例えば1人を養う徳と4人を養う徳、1万人を養う徳というものは、異なるんじゃないかと考えていて、1人を養うお金と1万人を養うお金は異なるからです。
まあもちろん、1人を養うお金に1億必要で、ある地域では1万人を養うのに1億円で十分です、ということもあるのでしょうが。
人を養うだけではなく、その人の持っているテーマというか使命というか、そういうものでも経済的な自由のために、必要なお金の額というのは変わってくると思います。
だから経済的自由というのもまた個性のようなものだなぁ、と考えるわけですが。
月末が近づくと僕自身慌ただしさを感じるようになりますが、それは単純に支出が増えるからなんじゃないか、と先日思ったんですね。
慌ただしくてもいいのであればそれもまたよしですが、いい仕事をしようと考えたとき、本当に自分自身の最大限のクリエイティブを発揮して仕事をするのであれば、なにかに急き立てられる、走らされるような仕事の仕方ではなく、能動的で主体的な、内側から湧き出る何かを自ら解放するってことなんじゃないか、と感じたことがありました。
もちろん、コピーライティングにおいてはジョン・カールトンがいうように、締切効果というものが大切であることも承知しています。
しかしよくよく考えてみると、締切効果というものは、何かに走らされているってことなんだとも思うんですよね。
スケジュールを立てたほうがいいというのはこの締切効果を狙ってのものかもしれませんが、自分自身の卓越性を発揮するということはもしかしたら、スケジュールの向う側にある世界なんじゃないかとも思うわけです。
なぜならば、その人ならではの仕事は、代えが利かないから。
そういう仕事をするためにこそ、経済的な自由が必要で、と感じたのですが、、、まだまだ語るに足りない。
そう反省する、冷え込む今日でした。
コメント