自分の今の経験で、言い方を変えると思い込みで解釈してもこじつけてしまうものだから、考えないほうがいいですよ、とは僕がよくする話です。しかし、考えないほうがいいとは言っても実際のところ考えていることは僕でも多々ありまして、それは何を考えているのかというと、「なぜ」を考えること。
こんなふうに生きるといいんじゃないか、という人がいるとして、しかしその人の考え方とか行動基準とか、会ったときはもちろん1ヶ月とか3ヶ月でわかるわけではない。
しかし、今の自分とその人の違いを生み出しているものは考え方とか行動基準とか、環境とか、いろいろな要素が混じり合っているわけだから、一緒に行動してみてその人を観察し、真似てみる。同じようなものを買ってみて、同じようなものを食べてみる。同じセミナーに参加してみる。
根っこの気持ちでは応援するという意味合いでセミナーに参加することが増えてきたように思いますが、もちろん学んではいるけれど、その人がなぜそういう講座やセミナーを開いているのかに思いを巡らし、その仮説が「ああ、そうだったのか」とわかる瞬間もまた、他では得がたい経験です。
僕が木坂さんや島田さんのレターを写経し続けるのは、もちろんセールスコピーの原理原則に則って、売れるレターの構造を身体に染み込ませることにあるのだけれど、その先に感じられるのは、その人の価値観とかコア・バリューとか、ミッションとかビジョンとか・・・うーん、在り方かな。どう在ろうとするのか。
これは、ジョン・カールトンやロバート・コリアーなんかもそう。
ジョン・カールトンは、いわゆる「ゴー・ネガティブ」があまり好きではないといいます(使うかどうかはまた別の話かと)。なぜなら、人がモノやサービスを購入するのは、「こうなりたい・こうありたい」という未来を購入するためであって、決してネガティブになりたいわけではないからです。
だからその人の書くものにはその人が透けて見えるというか、その人の人となりがあらわれるものだなぁと思うわけでして、実際にジョン・カールトンのコピーを読んでみると(多分ローカライズされたものですが)総じて明るく前向き。読んでいて、心が躍る。
なぜ、ジョン・カールトンのコピーに心が躍るのかといったら、ゴー・ネガティブを好まないというところ、人はうれしい未来を購入するというところにたどり着く。
写経して忠実に真似をすることは大切ですが(選ばれる人になっていないならなおさら)、常に「なぜ」は脳に持っておく。なぜこの言い回しなのだろう。なぜこのヘッドラインなのだろう。なぜこの価格のプレゼンなのだろう。
忠実に真似はする。けれど、なぜは常に問いかけておく。
すると、ある日フッとああ、こういうことだったのか、とわかる時が来ます。
昨日、グレートジャーニーのスポット参加の件で、後藤さんとスカイプでミーティングをしていたのですが、その時「島田さんがなぜメダルと交換でランチミーティングができるのか」というような話になりました。
島田さんがワイルドサイドを歩こうよでランチミーティングをはじめてからもう2年以上経つと思いますが、当時から「なぜメダルと交換で?」「なぜランチミーティングを?」「なぜ実質無料で?」という問いを頭においてきまして、実際に僕もマイルと交換でランチミーティングをやってもみました。
それがふと後藤さんとのミーティング中に、ああ、島田さんがメダルと交換でできるのはそういうことか、と腑に落ちた感があったのですけど、
言いたいのはこういうことで、ある人が何かをしている時、それが考え抜かれたものであろうとそうでなかろうと、目に見えることだけではその理由がわからないことって普通で、1年も2年も頭に置き続けてわかるような感じになることってありますよね、ということ。
真似しているのだけれどもうまくいく人とそうでない人の違いは、「自分の解釈を極力加えず、忠実に真似するかどうか」だとはよく聞く話だと思いますが、
もう一つ加えると、「忠実に真似をするけれども、なぜを常に問いかけ続けているかどうか」じゃないかな、と思います。
あとは実際に試してみること。身体を動かして試してみることが、その答えらしきものを導いてくれる唯一の方法なんじゃないかな、と思うんですけどね。
コメント
小野くん!!「なぜ」という視点の抽象度をコントロールしてみませんか?
(実はこれこそが哲学、知識論の根幹を成す部分かも知れませんが)
と言いますのも「なぜ」という質問には実はいろいろな視点(答え方)が含まれているからです。小野くんがブログ中で言及しているように「理由」というのはその一つ。ただし「理由」にもいろいろな解釈が可能で、現象や論理に対しては前提や原因、人の行動に対しては目的因、すなわち動機や意図を指す場合があります。そして、(哲学ではなく)科学の世界でまず言われるのは「なぜ」ではなくて「どのように」と問題を立てることが推奨されます(小野くんのブログの文脈でそれが良いか悪いかは別にして)。なぜなら、それは解明(説明)する対象をあるプロセスの原因の説明だけに落とし込むためです。例えば、なぜ人は言葉を話すようになったのか、という質問にはいかようにも回答が可能ですが、どのように人は言葉を話すようになったのか、という質問に対してはいろいろ説明はできますがその過程(プロセス)は一つ(あるいは少数)の時系列のイベント群に整理が可能だからからです(実際に解明、整理できるかどうかは別にして)。
つまり、「なぜ」という視点の抽象度を下げる一つのテクニックとして「どのように」あるいは「何」と質問に言いかえることでそのプロセスの原因に着目する視点に限定させること、あるいはより具体的な説明に限定することが可能になります。例えば、島田さんがなぜランチミーティングをしているのか、を、どのような経緯で島田さんがランチミーティングをするようになったのか、あるいは何かランチミーティングを始めるきっかけになったのか、何がランチミーグをする利点なのか、何がランチミーティングをする目的なのか、などなど。どの答えもおそらく「なぜ島田さんがランチミーティングをしているのか」の回答になりうると思います。いつか何かのご参考までに。
エラい参考になります。
抽象度のコントロールというところにまで触れてくれて、
わかりやすく前のめりになりました。
このあたり、言語化することが僕の課題だと考えています。
ありがとうございます!