苦手なものを遠慮する必要はない。

ビート・ザ・コントロール
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山中湖に来ています。

父が今日のキャンプ、というかコテージに泊まってバーベキューを楽しみにしておりまして、なぜなら長男次男を喜ばせる気が満々だから(だと思います)。

僕が子どものときは外出して宿泊してバーベキューなど、親族がいるとき以外はやった記憶がありませんから、孫ができた効果は絶大だなぁ、と。

今週末は妹の結婚式ということで、妹夫婦にも子どもができればまた一層孫のために張り切りそうな予感です。

しかしおもしろいもので、今日の山中湖の天候は雨。しかもエラい寒いせいもあるのか、妻と長男次男が布団敷いて寝ているのを横目に母が、

「あまり盛り上がっていないみたいね。お父さん張り切っているのにね」

と言っておりまして、これには笑ってしまいました。

長男次男は僕が子どもの時とは異なり、タイの親族たちと出掛けることが割と多いので、外出すること自体はうれしいけれど、これがはじめてというわけではない。過去2回の訪日でも、岡山に行ったり智頭に行ったり八方尾根に行ったり、浅草に行ったり水上のほうに行ったりしているので・・・。

だから、「うわー!!!うれしい!!!!!」まではいかないんですよね。それがちょっと残念みたいで。

両親と妻長男次男間のギャップはよくありそうというか、自分の経験した世界が普通であると思いがちというか。

僕はと言うと、そういうギャップが有るとわかっていながら今日の昼食場所に選んだのは、富士吉田うどんのお店。

結論から言うと、過去に食べた富士吉田うどんのほうがうどんのボソボソ感というかコシというか、そういうものが際立っており、今日のうどんはややふつうのうどん・・・山梨名物のほうとうに近いうどんでしたので、満足度は今ひとつでしたが、

両親に富士吉田うどんを食べてもらいたくて、妻や長男次男はそんな好きじゃないかもと思いながら、そのお店を選びました。

一応妻には牛肉が乗っかったうどんを注文し、「おいしい?」と聞くと、細い麺のほうがいい・・・と言い、太い麺は苦手で好きじゃない、と笑っていました。

僕の感覚だと、妻方の両親と食事に行く場合、何を出されても「おいしいです」というのが標準なだけに、僕の両親の前で「苦手で好きじゃない」なんてやはり図太いな、と笑ってしまいましたが、

苦手なものを「好き」とか言ってムリしないのは、僕にとってありがたかったりします。

苦手なものは苦手と言って遠慮しないので、妻にストレスはそうたまりませんし、僕もラク。

こうでなければならない、と言うものは近い関係ほどに強制力が働くと思いますし、それが必要な局面もあるのでしょうが、

実はこうでなければならないというのは思い込みにすぎないことだってあるでしょうし、それに対してノーと言うことに、遠慮する必要などないのかもしれません。

配慮は、あったほうがいいと思いますが。

時間はまだ16時だと言うのに、早くも火を焚いてバーベキューを開始するみたいですので、手伝ってこようかと。

また、明日。

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コメント

  1. より:

    毎度どうも。先日の「文脈」にもつながりますが、おそらくですが、その国(タイ)の「文化」「習慣」を考慮した「文脈」ではそれが「当たり前」なのかもしれません。

    確かに「文脈」とは広い意味を持ち、その意味や捉え方もその言葉を使う人の「文脈」で変わるのかもしれませんね!?

    一応ご参考までに簡単な例題を通して私が抱いている「文脈」の意味をご紹介します。

    例題1
    きみが好きだ!

    と言われたらどういう「状況」を想像するでしょうか?典型的な誤解の例は誰かが誰かに告白している状況か、白身と黄身のどちらが好きかと聞かれた状況、とか。これ同音異義語がある日本語だから使える例題で、英語だとこの勘違いはほぼ100%生まれません。つまり、前後の会話や、それが使われた場所や状況がわからないとこの文章の意味が確定しません。というように、この言葉の意味はそれが使われた文脈に依存します、というように私は使います。この場合は「状況」と言い換えられると思います。

    例題2
    (A)あなたは私のことが好きじゃないの? (B)はい。
    (A)Don’t you like me? (B) yes.

    典型的な英語の問題ですが、日本では「はい」の意味は、あなたが好きではない、という意味になり、英語で「yes」の意味は、あなたが好きだ、という意味になり、同じ意味のはずの「はい」と「yes」の意味が否定疑問文に対しては真逆の意味になってしまいます。これは日本語の「はい」が質問に対する真偽に対応するのに対して、英語は話者の(動作、動詞の)視点で「yes」の意味が対応する、ことに寄っています。つまり、否定疑問文に対する返答の意味はそれが使われた文脈に依存する、というように私は使います。この場合は言語または文化と言い換えらえるかもしれません。

    これらの例題は単純な言葉の意味を説明したものにすぎませんが、言葉に限らず、人間の行動や振る舞いを含め、世界のあらゆる物・事・現象(文脈という言葉の意味でさえ!?)は実はそれが使われた(それが存在する)文脈で解釈が変わりうる、と考えるのはもしかしたら相対主義的な見方かもしれません…

    いつか何かのご参考までに。

    • ono takamasa より:

      いつもありがとうございますー!

      言語を変えると、わかりやすいですね。

      助かります!

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