僕の場合、場所と時間を問わず仕事をするということは、世界のどこにいてもいつでも仕事ができる状態を指しておりまして、実際バンコクにいても上海にいても仕事をするためにこそ、今のような仕事の仕方を選択している、ということです。
一カ所にじっとしていることがなかなか難しいみたいなので、今のような仕事を選択できるのはとてもありがたいことだと思っていますし、仕事を依頼してくれる人たち、一緒に仕事をしている人たちあってのやり方であるとは常々感じています。
仕事に限らず、生活することに関してもまた、世界のどこにいてもというのはテーマになっておりまして、そこにいなければならない、と言うものから離れるように動く。
こう書いてみると、「そういう生き方っていいですよね」と言われることもあるのですが、僕自身にとってはそうだろうけれど、他のひとにとってそれが適しているかどうかはなんとも言えない。
憧れとその人の性格にフィットするかどうかは、また別物だと思いますので。
バンコクでクレイジーパパのディスカッションを行ったとき、ふと思い出すのは上海でもバンコクでもイスタンブールでも、僕はそこに行く理由があるんだな、ということでして、
自分ではフラフラしているように思っていても、実際はフラフラしているわけではなくて、たぶん考えている。
理由もないのにやっているように思えるけれど、たぶん理由はあるんじゃないかとも思います。
無意識での決断みたいなものを意識してみるといいのかなぁ。
先ほど、バンコクフロートセンターでアイソレーションタンクに入ってきたのですが、90分のセッションを終えてシャワーを浴びて外に出ると、オーナーがいました。
久々に会ったのですが、会うと顔がニヤッとなりまして、どちらからともなく近寄っていって握手してガッシリ抱擁。
アイソレーションタンクは一種のコミュニケーションツールのようで、入った人はそれだけでわかり合える感覚になり(個人差はあると思います)、なんか距離感が近くなるんですよね。
言葉をかわしたわけではないのに、不思議です。
便宜上、どこかの国でとかどこかの都市でとか書くことはあるけれど、そういうものを超えたところにあるコミュニティの中で生きているということを、アイソレーションタンクのようなモノを経験すると感じるようになります。
コレはたぶん、虎ノ門の料亭もそうですし、ナイフで切っても肉汁が出てこないお肉の店もそうですし、ナポリのス・ミズーラもそう。
世界のどこにいても、とはタイトルで書いてみたものの、実は世界などどこにもなくて、自分が認識していることが全てなんじゃないかとか、
まあそれはアタリマエのことかもしれないんですけれども、アイソレーションタンクに入った効果かこんなことを思いましたので、記しておきます。
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