社交辞令的なモノを本気で受け止めない。

ビート・ザ・コントロール
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そもそも社交辞令的なモノかどうかを判断することができないのであれば、本気で受け止めるも何もないのですが、怪しげなところに出た時に「何かありそうな気がする」と感じる人の感覚を、僕は信じているところがありますので、判断できるものとして。

仕事の上での社交辞令的なモノとは多くの場合、ほめるという言葉によって現れると考えているのですが、

人からほめられるとうれしくなる僕にしてみたら、社交辞令かなぁ、と思いはしてもやっぱりうれしくなることって多々ありまして、そうは分かっていても顔がほころんでしまうことってあります。

客観的に自分を眺めている視点からすると、ああ今オレはニヤけてしまったよ、なんて反省することは数知れず、わかっちゃいるけれど・・・という感じです。

その度に思うのは、それってつまるところ、オレはほめられてうれしいレベルにしかない、ってことなんだろうな、ということでして、だからこそセールスコピーでもなんでもそうですが、これと決めたものはやり続ける。

こういう言い方はどうかと思うけれど、圧倒的さを身にまとうことができたら、というのが僕の希望です。

周囲にいる人でその圧倒的さを身にまとう人を思い出してみると、彼らに対して社交辞令を言う人ってたぶんいない。誰も、ほめない。

だからほめられているうちは、お前はまだまだなんだよ、と言われているということ。そう僕は受け止めています。

考えてみるとそれはそうだと思うのでして、なぜなら、それが当たり前の人に対してスゴイとかほめるとかはないから。スゴイはあるかもしれないけれど、それが日常化している人だったらむしろ「普通」でしょう。

ほめるとかそういう言葉はないけれど、そこには尊敬の念があるとか、そういう感じが普通になっている。

ひとつのことをただやる、ただやり続けるということで、磨き続けていきたいですね、自分を。

P.S.
バンコクに戻ってきて夜が明けた初日は、二度寝していて妻から叩き起こされまして、長男と次男の着替えを手伝い、次男の幼稚園まで送迎に行ってきました。

その車の中でこんなことを思いましたので、記しておこうと思いまして。

今日はこのあと長男と次男の誕生日会の下見に行くようで、外食へ。

妻にしてみたら、「6月誕生日の子が多くて・・・」と誕生日プレゼントや誕生日会の出費を考えるとソワソワしている様子。

そうはいっても、ホワイトニングをやるとか、自分の望む美を磨くことには余念がなくて、この素がいいんだよな、と思いました。

ついついやってしまっていた、というのを大切にしたいと思います。そこに、打算のない、そして何らかの敬意がある素直さで。

P.P.S.
でも・・・今日の画像は、うれしい。難聴であることを伝えているので、最近はJALに乗るとどのフライトでも受け取りますが、どれもその人のキャラクターがうかがえます。これもまた、飛行機に乗りたい理由になっています、最近は。

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