上海龍華寺。素食。

ひとりごと
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千日供養の日ということで、しかしお墓参りではなく、割とそばにあるお寺に行ってみることにしました。

上海の龍華寺です。調べると、三国志時代の呉の孫権が母のために設立したのだとか。

タクシーから見かけた黄金色に輝く静安寺とは異なり、龍華寺は割と落ち着いて質素な出で立ちだな、と感じたのですが、縦に長い敷地に足を踏み入れ、中国の人に習ってお線香に火を炊き、拝んでから中へと進んでいくと、仏像の出で立ちに思わず手を合わせておりました。。。

タイでもお寺にはよく行きますし、仏像には割と手を合わせている方だとは思いますが、ちょっと迫力が桁違いだったように感じられます。

タイにいる妻には恐縮ながら、また行ってみたいお寺は?と聞かれても、ピッサヌロークのお寺は出てくるものの、わざわざ行こうとなるとなかなか思い浮かぶお寺はありません。

しかしこちらの龍華寺は、また明日か明後日も行こうかな、と思わるインパクトが僕にはあったようです。

少しインターネットで調べても、千手観音像の情報しか出てこず、僕がちょっとコレはずっと見ていたいな、と感じさせてくれました、黒色っぽい、もしかしたら木でできているのかな、、、スラッとしたスタイルの仏像が出てきませんし。。。

そして、また行きたいと思った理由の一つに、素食レストランの存在があります。

入り口から縦に進んでいき、最後の仏像がいらっしゃる場所を抜けると出口があるわけですが、出口の手前に素食レストランがありまして、ここの麺が、なんとも言えない味わいだったんですよね。

素食とは、殺生を必要としないものでつくられた食べ物でして、今日はいわゆるジャージャー麺を食べたのですが、お肉が入っておらず、お肉の代わりに大豆とかお麩とかが使われていたのですが、まあよくできていて美味しいこと。

あっさりしすぎているのかというとそういうことはなく、結構濃厚でお腹にたまります。

しかし、、、クドさが一切ないんですよね。

お肉やお魚にもよるのでしょうが、いかに普段食べているものに身体がクドさを感じているのかがわかるひとときでした。

で、ジャージャー麺のほかにも種類がありまして、それを食べたくてまた行ってもいいかなぁ、と。

熱出して24時間眠り、今は体力を回復している最中なのですが、一度身体をリセットするとどんなものを身体が欲しているのか、感じやすくなるように思います。

中国語の素食とはでは質素な食事のことではなく、菜食のことだそう。

仏像にも食にも奥深さを感じた龍華寺参拝でした。

P.S.
お寺に行く理由は徳を積むためなのですが、自分自身との対話をするため、でもあるように思います。

三輪山に登るのも、剣山に登るのも、甲浦八幡宮に行くのも、身体を通じて自分自身と対話をしているんだな、自己鍛錬のようなものだな、とつくづく思いました。

いずれエルサレムの嘆きの壁に行ったとしても、それは同じ意味合いなのだと思います。

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