しなければならない、ということはない。

ビート・ザ・コントロール
この記事は約3分で読めます。

昨晩も妹がお客さんを連れて家にやってきました。

聞くとクマちゃんというあだ名の先生だとか。同じ学校で数学を教える先生。

何でも妹を師匠のように思っているとのこと。

なぜ家に連れてきたかというと、その彼をウチの父に会わせたかったと。何か悩みごとがあるらしく、それを父に聞いてほしいと思ったそうです。

その悩みというのは2つ。

1つは、実家に帰ってこいと言われていて、帰ろうかどうか悩んでいる、というもの。

もう1つは、同僚の先生とうまくいっていないらしく、どうしたものかと悩んでいる、というもの。

彼と父との話は聴き取れなかったのですが、その後僕に意見を求めてきたので一言。

「クマちゃんは、どうしたいと思っているんですか?」

すると彼は、ここの学校に残りたいですと。理由を聞くと、師匠である妹からもっと学びたいから。

じゃあ、それはそれでいいんじゃないですかね、すべきこと、自分の内側からの声、魂の声に従っているのであれば。

見栄とか義理とか義務感じゃなくて、たぶん損得でもなくて、すっと身体が動くような声。

これが聴こえていて、それに従っているうちは大丈夫だよと。

もう一つの同僚の先生とうまくいっていない、に関しては、

「そもそも、うまくいく必要ってあるんですかね?」

と質問すると、クマちゃんは驚いた顔になりまして、「妹さんと同じことをいうんですね」と。

僕自身、経験があるのですが、人間関係の悩みって義務感とか常識とか固執に原因があるんじゃないかと思っていて、手放すことを良しとしない空気を感じます。

オレたち友達だよね、仲間だよね、みたいな。僕、これ苦手で。

同僚だからとか、家族が言うからとか、まあそれは確かにわかるけれど、そういう「しなければならない」というようなものは思い込みに過ぎなくて、たぶんしなければならない、義務のようなものってないとも思うんですよね。

両親が家に帰ってきなさい、と言ってもそれはしなければならないことではない。まあ選択肢のひとつにはなるかもしれませんが。

しなければならない、同僚と仲良くしなければならない(まあしたほうがラクなんでしょうが)、というものは思い込みに過ぎなくて、大切なことは自分の内側から聴こえてくる声が、なんとささやいているか、なんだと思います。

僕自身、しなければならない、という錯覚に踊らされることがあるなぁ、と振り返りつつ、長男との関係性を親子のそれにするために独立起業したことだって今思えば、

しなければならない、ということではないんですよね。

そうではなくて、自分にとってすべきことだった、のだと思います。

内側から聴こえてくる魂の声というのは、変わることもあるわけで、だからその声が変わったら人間関係だって変わることもある。

どっしりと、軽やかに。

こんな感じでいいんじゃないかな、と思います。

ビート・ザ・コントロールのメルマガはこちらからどうぞ




コメント

タイトルとURLをコピーしました