昨日はLicense to beatの自分という器クラス第三回講座。
1年間を通したテーマとして、「どう生きたいのか」を認識し、それを言語化し、他者理解を得るようになる、というものがあるんだけれども、
出てくるものは主張になっていないなぁ、と僕自身感じるし、主張の定義からすると参加者それぞれも主張になっていないな、と理解してくれたと思います。
主張といえば島田さんや木坂さんということで、木坂さんのいう鉄板の公式は「○○だと思っていたが、実はxxだった(と思います)」であり、島田さんはピーター・ティールの「隠された真実」から「あなたが信じる、賛成する人のほとんどいない重要な真実は何ですか?」を紹介してくれています。
さらに主張という言葉を辞書で引いてみると、
「自分の意見や持論を他に認めさせようとして、強く言い張ること。また、その意見や持論。」
とgoo辞書にありますから、そもそも人が聞いて「そうだよね、それはもっともだよね」というものは主張にならない。
例えば、「会社は社員を大事に扱うべきだ」とかね。その実際のところはともかく、この「主張」を聞いても「いや、違うよ」とか「え!ホントにそう思うの?」と言う人は多くはないと思います。
だから、多くの人がそうだよね、そのとおりだよね、というものは主張にはならない。なぜなら、「認めさせる必要が無いから」です。
そこで今日新宿の紀伊國屋書店でみつけたのが、このポスター。堀江さん本のタイトルですね。
『99%の会社はいら…(たぶん、99%の会社はいらない、です)』
コレ見て、思わず立ち止まりました。これは主張だよな、と。
これは個人的な考えですが、主張というのは多くの人にとって(すべてはないと思いますが)、「ギョッ」とするものが多いんじゃないかな、と思う。
しかしそれなら、言葉ではなんとでも言えるわけでして、例えば堀江さんが『99%の会社はいらない』と「主張」するなら、その裏付けを人は感じ取るもの。
たぶんですが、堀江さんがこう言うと主張だと感じますが、オバマ大統領がこういってもギョッとはするけど「本当かな?」となる。
なぜなら、雇用を増やそうとしていることが一般的には知られているからです(裏を取っていないので、私見ということで)。
だから、主張というのは
*自分の意見や持論を他に認めさせようとして、強く言い張ること。また、その意見や持論
であり、
*多くの場合、それを聞いた第三者がギョッとするもの
であり、
*主張する言葉に根拠があるもの(身体性を伴うもの)
こんな感じかなぁ、と。だからこそ、
*○○だと思っていたが、実はxxだった。
*あなたが信じる、賛成する人のほとんどいない重要な真実は何ですか?
という公式や質問から導き出される。
多くの人が話すことは主張になっていないと(いうようなことを)木坂さんから聞きましたが、僕の認識では、人の目を気にするあまり、よく思われたいとか反感を買いたくないとか、そういう欲求が自分の主張から自分を遠ざけているんじゃないかな、と思うこともあります。
何者かになるためには、自分自身を知る必要がある。自分自身を知らないなら、自分が何者であるかを人に伝えることはできませんし、どんな価値を誰に提供できるのかもわからないんじゃないかと思う。
だからこそ自分の主張を書き出すというのは、とても大事なことだと僕は考えています。
まだ第三回。鳥取行ったり、大阪行ったり、アンコール・ワットに行ったりして、自分の器を広げ、深めていきましょう。
あなたの主張は、なんですか?それは人がギョッとするものですか?そしてその主張には、身体性を伴っていますか?
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