相対主義を乗り越えられるか。

1年間続いたインプットクラスのファイナルは、1年前と同様に沖縄で。

違いといえば、1年前は北谷で開催だったことが、今日は那覇で。

そして、1年間かけてジョン・ロックを読んできたこと(今日は読んでいないけれども)。1年前は、読んでいませんでしたから。

1年間常にあった状況として、学校の教室のような場所での議論というのは、僕にとってはほとんど聴こえていないということなんですけど、それは今日であってもほとんど変わらず。

若干、今日の教室は小さめだったことと反響がそんなにない気がして聴き取りやすくはありましたが。

だから、話の内容を聴き取ることは難しいので、場の雰囲気でどういう状況なのかを推測するようにしています。

今日の主テーマは多分、相対主義を乗り越えられるのか、乗り越えられるとしたらどんな風に乗り越えられるのか、ということ。

議論が聴こえていない僕にしてみれば、その人の発言よりもその人と一緒に過ごした結果感じていることを重視するわけでして、

「それって相対主義ですよね?」と例えば誰かがその人に対して指摘した時に、僕が思っていたのが、

「え、相対主義ではないと思うけどなぁ・・・」

というもの。

相対主義の定義は何か、というのもあるのですが、「あなたはあなた、おれはおれ」という無関心ではなく、一緒に何かに取り組める人だということを知っていたから、その人を指して相対主義者だ、というのはいまいちわからなかったんですよね。

しかし最後になって、「議論の上で」という前提条件をつけてみたら、確かにそうかもしれない、と思ったわけです。

実物というか実存というか、それを見るのではなくて、「議論の上で」という前提条件をつけてみる。

そういうルールで、相対主義をどう乗り越えるのかを議論する。

相対主義な人は論理を大事にする。だから、ルールメイキングが必要なのです、というような話になったのですが、議論の上でというルールを設定して初めて、僕も確かに相対主義だあの人は、と思ったわけで。

話をしているようで噛み合わないことってあるとは思いますが、そういう場合は大抵自分の言いたいことを言いたいように話しているもの。

コピーを書くときは、「読み手が読みたいように」書くのが基本ではあると僕は考えていますが、相対主義の人に対してコピーを書くのであれば、論理を大事にし、ルールメイキングをした上で、話を展開していくというのは大切なんだろうな、と感じました。

もちろん、その人の頭のなかにある論理が何なのかを読み取った上での話ではありますが。

自分ごととして話を聞くことが大切だとはよく聞く話だと思いますが、ジョン・ロックと1年間向き合い続けるということもまた、そういうトレーニングになっている。

解釈したくなるものですし、白黒つけたくなるものですから。

ある現象を前にした時に、自分の解釈で判断しない「強さ」を、常に持ち続けたいと思ったインプットクラスファイナルでした。

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4 Replies to “相対主義を乗り越えられるか。”

  1. 毎度どうも。お疲れ様です。ここら辺のお話は多分散々いろいろなところで議論されていてさらにその会場での文脈も共有できていないので小野くんのブログの文脈で一つの視点として参考コメです。

    まず、哲学書を勉強するあるいは過去の哲学者の本を読む、というのはある意味、考え方を学ぶ、ということですので当時の背景や提起された問題点などを踏まえて、どのように過去の哲学者の考えを修正したのか、その後その考えがどう修正されたのか、等々を自分の経験に照らし合わせながら考え直すことで小野くんの言うところの身体性を伴った「知識」になると思いますので、ジョンロックの思想だけではなくて、それを基礎として小野くん流哲学を発展させてもらいたいと思います。

    で。相対主義ですが(全くの私見ですのでご参考程度に)、
    相対主義は絶対主義の否定ではない、というのはよく聞きますが、対比されるものではあるとは思います。これを「抽象度のコントロール」という点で統合してみましょうか。相対主義とはある意味、状況依存の見方考え方と捉えることができます。それに対して、絶対主義というのは状況に依存しない唯一絶対的な見方だと考えることができるかと思います。つまり、より視点を抽象化させていくことでいろいろな状況に当てはめられる(説明可能な)視点というものを考えることができるようになる(はずです)。抽象化の極限(もし抽象化の尺度を数学で定義できるならlim→∞という感じ?)に到達することができるとするならどんな状況にも依存しない唯一絶対の視点(説明可能もしくは解釈可能な視点考え方)にたどり着くことができる(かも?!)しれません。もしかしたら理論物理学者というのは世界の全ての物の理を説明しうる唯一絶対の神の数式を追い求める絶対主義者(かも?!しれません)。

    つまり、相対主義的な考え方の抽象度をどんどん上げていくことで絶対主義的な視点(真理?)にたどり着くことができる(のかもしれません、全くの私見ですのご了承を)。

    ここで使った思考のテクニックはいわゆる「弁証法」と呼ばれるもので、二項対立的な考え方を別のメタ的な視点を挿入することで統合(止揚)させる、というものです。弁証法もいろいろバリエーションがあるので次あたり、へーベルを読んでみるのもいいかもしれませんね。時代の流れ的にもジョンロックの経験論と対比しながらドイツ観念論ってなんぞやと学ぶのも面白いと思います。いつか何かのご参考までに。

    1. ありがとうございます!

      アウフヘーベン、ですね!

      僕流の哲学へのアウフヘーベン、がんばります。

  2. へーベルはハウスですね…ヘーゲル、でした。失礼。すでにご存知かもしれませんが、弁証法といえば、ヘーゲル、と言われるほどなので。ご参考までに。

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