経済的自由の話と卓越性の話をブログに書いたとき、これって卓越性がすべての人にあることを僕は前提にしているんだな、と思いました。
僕はすべての人に卓越性はある、固有の卓越性はあると信じているけれど、それを見出していない人もいると思っています。
昨日従弟からの相談を受けてあらためて思ったのは、すくなくとも環境の責任、誰かの責任にしているうちは、自分の生活や仕事が好転することはないでしょうし、自分自身の卓越性に気づくこともない。そんなことです。
「この人についてけば間違いない」「この人についていけばオレは変わることができる」という言葉そのものは覚悟みたいなものも感じられて美しさを感じることもありますが、実際のところそれって自分で責任を引き受けていないよね、と感じたりもします。だからこの言葉から覚悟とか美しさを感じるときというのは、話者が誰なのかによる。
結局のところ、誰かに依存しにいっている姿勢、環境に依存しにいっている姿勢であるうちは、どんなにお金や時間を投資しても、その人の人生が好転することはないし、その人のビジネスが好転することもない。
そんなことを、僕自身がこの2年で経験してきました。
「この人についていけばなんとかなる」というのは、現実からの逃げのようなものであり、なぜなら自分自身と「この人」とは、別人だからです。同じ人にはなれないし、同じ環境にいることも厳密にはできません。
だからこそまずは自分を知り、その自分を活かすためにはどういう環境にいるべきか、誰と一緒に過ごすべきなのか、を感じる、考えることが大切だと考えています。
自分の運転するバスに、誰を乗せるのか。自分が経営する会社というバスに、誰を乗せるのか。
僕の推測でしかありませんが、個々の卓越性というものは、自分自身を知り、自分自身に責任を引き受けた人たちが自ずから発揮できるもので、考えても知れるものではないし、気づいたらそこに在るものなんじゃないかと思っています。
自分の人生にどこか他人ごと感があり、たぶんその正体は依存なのだと考えていますが、そんな空気をまとっているうちはたぶん、卓越性に気づくことはないし、気づきたくもないでしょう。
僕たちはというと、どうせ仕事をするなら、いい仕事がしたい。どうせ誰かと一緒に仕事をするのであれば、卓越性を発揮している人と仕事がしたい。
そんな風に思います。
そのためには僕自身が、僕たちビート・ザ・コントロール株式会社自身が、卓越性を発揮しているだろうか?
そんな問いかけが大切だと感じています。
コメント
(マーボーくんからの投稿を操作手違いで紛失してしまったので、、、代わりに再投稿します)
毎度どうも。
余計なお世話かもしれませんが、今日は一つ「気づき」のお手伝いができないかと思いコメントを書いてみます。
卓越性発揮のための経済的自由の必要性。
なぜ(何の目的のために、何を達成するために)卓越性を発揮する必要があると考えているのか?
小野くん流の思考方法を真似て考えを掘り下げてみると?そんな「なぜ」という問いがまず心に浮かびました。「私が」どう考えているか、ではなくてブログを書いた「小野くんが」どう考えているか、です。
多分これ、自明なように見えて、小野くんにとっても自明な問いではないと(直感的に)感じるのですがいかがでしょう?(的外れでしたらごめんなさい)。少なくとも、経済的自由を得るため、ではないでしょう。それでは論理が循環してしまいますから。いい仕事をするため?顧客を満足させるため?自分や会社の成長や自信を得るため?家族を幸せにするため?間違いではないでしょうが、それらもちょっと違うように思いました。前回のブログでも書いていましたが、自分を全うするため、か。多分何かの言葉にしてしまうと違うと感じてしまいます(多分小野くんとの共有している経験や文脈が少ないためでしょうきっと)。マズローさんのいうところの超越者(Transcender)になるのを見据えている状態なのか。
そもそも「卓越性」とは何だと考えているのか。
そんなことも一ブログ読者としては気になるところです。例えば、日本語ではともに「卓越性」と訳されますが、ドラッガーさんはExcellenceという言葉を、エイブラハムさんはPreeminenceという言葉を使いますが、アリストテレスさんはArete(徳とも訳されます)という言葉を使いMesotes(中庸)が大事と説きます。ミステリー小説のように?いずれまたブログでヒントを書いてくれることを期待しています。
いつか何かのご参考までに。
(上記投稿への返信を再投稿します)
タイムリーなコメントをありがとうございます。
自分を全うする、超越者、近いと思いますが、
マーボーくんが言うように、僕も違うと感じます。
答えは出ていませんが、今日のブログ記事もまた、
お楽しみくださると。